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中国は歴史が非常に長く、王朝の名称も多い。どの王朝の創立者も、まず手がけることは国号(王朝の名称)を確定することであった。国号は国の称号である。「史記・五帝本紀」には、「黄帝より舜・禹に至るまで、皆同姓なり、而してその国号を異にし、もって明徳を章にす」と記されている。
王朝の名称は何によって決まるのか。大体五つの由来がある。部族、部落の同盟の名称、創立者のもともと封じられた称号、爵位、創立者がもともと統治した地域の名称、宗族関係、吉祥の意味を含む名称。
夏 伝えられるところによると、禹はかつて夏伯に封じられたことがあるため、その王朝も「夏」と称した。歴史学者の范文瀾氏の説では、禹の息子の啓が西の大夏(山西省南部の汾かい一帯)に移った後、「夏」と称されるようになったということになっている。
商 伝えられるところによると、商(現在河南省商丘の南部)の始祖の契がかつて禹の治水に功労があったため、商に封じられた。その後は、「商」をもってその部落(あるいは部族)を称するようになったらしい。湯が夏を滅ぼした後、「商」を国の称号とした。その後、盤庚が殷(現在の河南省安陽の西北)に移った後、「殷」あるいは「殷商」とも称した。
周 周の部落は古公亶父の王朝になって、周原(現在の陝西省岐山)に移った。武王が殷を滅ぼした後、「周」を王朝の名称とした。周の前期は鎬(現在陝西省西安の南西)に都を定め、その後平王は東の洛邑(現在河南省洛陽)に移り、鎬の東にあったため、「西周」と「東周」の称号がつけられるようになった。
秦 「史記」によると、秦はもとは古い部落の名称で、首領の非子は周孝王のために馬を飼育することで功績があったため、周孝王から「イン」という姓を賜り、小さな面積の土地(現在甘粛省天水県、甘粛省西部の谷の名称という説もある)下賜され、その後襄が周を救うために功労をたてたがゆえに諸侯に封じられ、秦の始皇帝は6カ国を統一し、秦国を打ち建てた。
漢 項羽は劉邦を漢の王に封じ、後に劉邦は項羽を打ち破り、中国を統一し、国号を「漢」と称した。漢朝の前期は都を長安に置き、後期は都を洛陽に置いた。都について言えば、「前漢」と「後漢」があり、時期的に言えば、「前漢」と「後漢」に分かれている。
魏 漢の献帝はかつて曹操に「魏公」、「魏王」という爵位を封じ、曹丕が執政した漢の後期に「魏」と称された。皇室の姓が「曹」であるから、歴史上「曹魏」と称されている。
蜀 劉務は四川を活動圏とし、蜀は四川のことを指す。その権力を握った一族は「蜀」と称された。歴史上「蜀漢」とも称された。漢は東漢を継承していることを指している。
呉 孫権は長江下流一帯を活動圏とし、歴史上でかつて呉国を打ち建てたことがあり、曹魏はかつて孫権を「呉王」に封じたため、歴史上「孫呉」とも称された。また地理的位置が東にあるため、「東呉」とも称された。
晋 司馬昭が魏の皇帝に迫って自分を「晋公」に封じさせ、蜀を滅ぼしてからは晋王に昇格した。後に息子の司馬炎がその位を受け継ぎ、魏の皇帝の退位を迫り、自ら皇帝になり、国号を「晋」と定めた。
隋 隋の文帝楊堅の父親の楊忠は、かつて北周に「随国公」と封じられたことがある。隋の文帝はこの称号を受け継ぎ、「隋朝」と称した。「随」には「去る」という意味が含まれているため、不吉であることを恐れて「隋」に変えた。
唐 唐の高祖李淵の祖父の李虎は、周を補佐して功労をたてたため、「唐国公」の称号を追贈された。爵位は李淵まで引き継がれた。太原で挙兵した後、李淵は「唐王」と称し、楊侑を廃して唐王朝を打ち建てた。
遼 遼はもとは「契丹」と称されていた。「遼」に変えたのは遼河上流一帯を居住地としていたからである。
宋 後周の恭帝が即位した後、趙匡胤を帰徳節度史に任命した。帰徳軍隊が宋州(現在河南省商丘)に駐屯することになったため、趙匡胤は宋州節度使になった。その後、陳橋での反乱の後、宋州で一旗挙げたため、国号は「宋」と称した。
西夏 拓抜思恭は夏州(現在の山西省横山県)を占領し、国を打ち建てた時夏州にちなんで、「大夏」という王朝名がつけられた。また西側に位置していたため、宋の人たちは「西夏」と称した。
金 金の都の上京会寧(現在の黒龍江省阿城以南)は、按出虎水(現在のアシュ川)に位置し、その川には金が産出すると言われ、女真語で「金」は「按出虎」と言われていた。
元 「元史」によれば、「元」という王朝名は、元の世祖のフビライが決めたものとされている。「易経」の「大哉乾元」の「元」からきたもので、大きい、トップなどの意味がある。しかし、蒙古の人たちの風習とトーテム信仰にかかわりがあると見ている人もいれば、仏教とかかわりがあると考える人もいる。
明 朱元璋をかしらとする軍は元代末期の蜂起軍の一つで、郭子興の勢力を受け継いで発展した。郭子興は白蓮教に属した。白蓮教は「暗黒が間もなく過ぎ去り、光明が間もなく到来する」と宣し、それによって人びとが暗黒の元王朝の統治に反対するよう励ました。それはまた「光明教」ともよばれる。白蓮教の首領の韓山童(その息子の韓林児は「小明王」とよばれた)が「明王」と称することにはその教義の主旨が具現されている。朱元璋はかつて白蓮教を信奉しただけでなくて、自ら白蓮教の蜂起軍の一つ(かつて小明王左副元帥だった)だと認め、朱元璋は権力を手にした後、国号を「明」とした。
清 満州族は女真族の一つである。女真族は北宋の時に金国を打ち建てた。明の末期に、女真族の勢力が強くなり、金国(後金)を再び打ち建てた。後金は勢力範囲を拡大するため、明朝との君臣関係を断ち切り、皇太極は「女真」を「満州」に変え、「金」を「清」に変えた。宋の頃、女真人は契丹人に束縛され、「遼」という字は契丹語の中で「鉄」の意味で、「金」と命名するのは、鉄より更に力強いことを表すためであり、「遼」を打ちひしぐことができる、という意味であった。「金」を「清」に変えた原因は、歴史学者の間には違った見解があり、皇太極が鋭い対立を引き起こすことを避けるためではなかったかと見ている人もいる。
「チャイナネット」2001年2月15日
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