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日本に学べ トウ小平と中日経済交流
発信時間: 2008-11-06 | チャイナネット

 

中国中日関係史学会副会長 張雲方

 今年は中国の改革・開放30周年で、中日平和友好条約締結30周年にもあたり、中日両国の人民が祝うにふさわしい、大きな意義を持つ年である。現在の若者には理解できないだろうが、当時の中国の改革・開放は日本の知力と財力による大きな支援を得て初めて今日のような輝かしい成功を収めたのであり、このため、中国の改革・開放と中日平和友好条約とは中日の友好協力における不朽の功績であると言っても全く誇張でも何でもないのである。

一、鄧小平の訪日は中国の将来のために参考に値する路を求めて

 1978年10月22日に鄧小平氏は中日平和友好条約の締結式典のための訪日の旅へ旅立った。今回の訪問には2つの重要な歴史的な使命があった。1つは中日平和友好条約の締結を成功させること、もう1つは戦後の経済発展の奇跡を生み出した日本を考察し、中国の将来の発展のために参考となる路を探求するためだ。私が思うに、当時の経済の疲弊した中国にとっては第2の使命の意義の方がより緊迫し、重大だったろう。

 四人組を倒した後の1977年7月に鄧小平は復活した。復活後の鄧小平が中国の指導者と何度も考えた問題は、中国はどこに向かうべきか、中国は将来どんな道を歩くべきかという問題だった。

 1978年夏に、華国鋒、陳雲、葉剣英といった同志と意見を交換した後、鄧小平氏は当時経済を主管していた国務院副総理の谷牧と長い対話を行った。2人はいずれも、中国は改革なしには将来はないと考えていた。問題は、どのように改革し、誰を改革の参考とし、誰が知力や財力といった面で支援を行ってくれるかという点だった。比較を行った後で、2人は日本が今後の中国の発展のために参考にすることのできる対象だと考えた。理由は、中日両国はいずれも東方文化に属し、米国や英国、フランスといった西側国家と比べて互換性が大きいためだ。同時に、戦後の日本は一面の廃墟から出発し、20年にも満たない努力を経て世界第2位の経済強国となった驚くべき奇跡にもよる。ある意味で、スタートは若干似ていると言えた。これは鄧小平が中日平和友好条約の締結式への出席の機会を借りて、日本の実地考察を行いたいと考えた背景だ。

 その対話で、2人は日本に高級経済考察団を速やかに派遣し、また世界から招聘した中国の経済発展に対策を提出できる外国の経済専門家を中国政府の経済顧問とすることを決定した。

 鄧小平氏の日本訪問は10月22日から29日だった。スケジュールを見ると鄧小平氏の訪日には二重の意義があることがわかる。鄧小平氏は東京に3日滞在して中日平和友好条約の締結など重要な政務日程を完了した。しかしこの3日の間にも鄧小平氏は日本の経済発展の理解をそのポイントにしている。氏は「中国の現代化を実現するには、正確な政策が必要で、よく学び、世界の先進国家の管理方法を我々の発展の起点とする必要がある……謙虚に日本に教えをいただく必要がある。」と率直に述べている。また「日本は古くから蓬莱と呼ばれ、不老長寿の薬があると聞いている。私の今回の訪問もそれを得るためだ。不老長寿の薬はないかもしれないが、日本の科学技術発展の先進的な経験を持ち帰りたい」とユーモラスに語っている。

 残りの4日の日程で、鄧小平氏は一心に日本の経済と社会の考察を行った。氏は日本の経済界、財政界、経済学界の有名人と会見し、彼らと経済発展や中日の経済協力などの見解について意見交換を行った。新日鉄君津製鉄所や日産の座間工場、松下電器門真工場といった日本の代表的な企業を参観。君津製鉄所では高い見学用通路に登り、広々として壮観な鉄鋼圧延の現場を俯瞰した。鄧氏は前へと圧延されてゆく鋼板を前に感情を高ぶらせた様子で「私たちもこんな工場が欲しいものだ」と語った。宝山鋼鉄工場はこのようにして建設が決定された。松下門真工場で鄧氏は、現代化には電子工業が不可欠だと述べた。鄧氏は松下がリーダーシップを取って中国に投資し工場建設を行うことを希望し、その後松下は北京を選んでカラーテレビブラウン管工場を建設、鄧氏の当時の呼びかけに答えた。日産自動車での題詞(記念のために書く言葉)は「偉大で、勤勉で、勇敢で、知恵のある日本人民に学び、敬意を表する」で、新日鉄公司の題詞は「中日友好協力の道は進めば進むほど広くなる。我々は共に努力しよう」、松下での題詞は「中日友好の前途は錦の如し」となっている。

 日本の実地考察や日本政界、経済界との対話を通じて、鄧小平氏は戦後日本の経済発展の流れをはっきりと理解し、中国は必ず改革・開放を行わなければならず、一刻の猶予もない、中国の改革・開放、経済発展において日本を参考とするという構想が正しく、完全に可能性があると一層感じるようになった。鄧氏はすぐに祖国に飛んで帰って、日本の経験を中国の経済建設に応用できないのを残念に思った。南へ行く新幹線で、日本の記者が鄧小平氏に感想を尋ねた際に、鄧氏は「誰かが後ろに鞭を持っていて、私をせきたてて走らせているようだ」と率直に語り、帰国する飛行機の上ではさらに興奮を押さえきれないように「私は喜びの気持ちを抱いて来て、また喜びの気持ちを抱いて帰る」、「日本を見て、現代化とは何かがわかった」と語っている。

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