中国の人権発展50年





    1999年は中華人民共和国成立50周年にあたる。半世紀いらい、中国人民は中国政府の指導のもとで、国の主人公としての姿勢で、貧困と立ち遅れをなくし、富強、民主、文明の国を建設し、人権を十分に享有するという崇高な理想を実現するため、長期にわたってたゆまず模索し、初志をまげずに奮闘し、中国の人権状況に天地をくつがえすような変化を生じさせた。

 

一. 中国の人権発展の歴史的転換    

    半植民地・半封建の旧中国では、広範な人民が長期にわたって帝国主義、封建主義、官僚資本主義の抑圧のもとに置かれていたため、人権と言えるものは何もなかった。1949年の新中国成立後、中国政府と人民は一連の大規模な運動を展開して、旧社会から残された汚れを速やかに洗いながし、人権を促進、保護する基本的な社会制度と政治制度をうち立て、国と社会の様相を一新させ、中国の人権発展の新紀元を開いた。

    ――真に国の完全な独立を実現し、守り、人権発展のために不可欠な前提をつくり出した。旧中国では、外国列強にひどく侵略され、奴隷化され、国の主権が失われ、人民の人権が最低限の保障を失ってしまった。中国共産党の指導する人民民主主義革命が勝利をおさめた最初の重要な成果は、帝国主義列強を中国から追い出して、中国が真の自主独立を実現するために道を掃き清めたことである。新中国は成立後ただちに、帝国主義列強が中国に押しつけたすべての不平等条約および彼らがかすめ取ったさまざまな特権を廃棄し、断固として中国にあるファシスト国家の財産を没収し、中国における帝国主義の植民地的支配の政治的、経済的特権を徹底的に一掃して、国の完全な独立を実現した。新中国の成立初期に、アメリカをはじめとする西側諸国は中国に対し政治上の不承認、経済上の封鎖、軍事上の包囲という全面的封じ込め政策をとり、1950年にはばかることなく朝鮮戦争を発動し、鴨緑江にまで戦火を広げ、人民共和国を揺りかごの中で締め殺そうとした。新中国はきわめて困難な状況のもとで、強暴を恐れず、やむなく祖国防衛の正義の戦争を進め、偉大な勝利をかちとり、国の独立と人民の安全を力強く守った。これと同時に、新中国は確固として自主独立の平和外交政策をとり、平和共存の五原則を積極的に唱導し、模範的に遵守、履行し、世界各国との平等互恵、平和友好の関係を発展させ、国際的敵対勢力からの孤立、封鎖、干渉、挑発を成功裏にうち砕き、国際社会から幅広い尊敬を受けた。真に国の完全な独立をかちとったことは、中国人民が自己の意思に基づいて自主的に社会制度、政治制度と発展の道を選ぶため、のちの国の対外開放および安定かつ健全な発展のため、さらには人権をたえまなく改善のために根本的な前提をつくり出した。

    ――人民民主主義の政治制度を確立し、これを健全にし、人民が国の主人公となる民主的権利を保障した。1949年に開かれた中国人民政治協商会議は、暫定憲法の性格をもつ「中国人民政治協商会議共同綱領」を採択し、選挙を通じて中央人民政府を選出し、中華人民共和国の誕生を宣言した。「共同綱領」は、国家権力は人民に属し、人民は法によって選挙権、被選挙権および思想、言論、出版、集会、結社、通信、人身、居住、移転、信教、示威行進の自由権を享有すること、国民党反動政府の人民を抑圧するすべての法律、法令と司法制度を廃止し、人民を保護する法律、法令を制定し、人民司法制度を確立することをはっきりと規定している。1953年2月、中国は「中華人民共和国選挙法」を公布し、同年12月、全国において普通選挙をおこない、登録した選挙民は満18歳以上の公民の97%を占め、そのうち85.88%の選挙民が選挙に参加し、合わせて末端組織の人民代表566万9000人、全国人民代表大会の代表1226人を選出し、これらの人民代表は広範な代表性を持っている。これは、中国史上最初の全国的規模の普通選挙であり、国家事務に参与しこれを管理する人民の民主的権利が実現した。1954年9月、第一期全国人民代表大会第一回会議が北京で開かれ、人民の民主の十分な具現を踏まえて、「中華人民共和国憲法」が採択された。憲法草案は全国人民代表大会の審議にかける前、全国に公布され、全国人民のあいだで2カ月間余りにわたって討論が繰りひろげられ、合わせて1億5000万人がこの討論に参加し、116万件余りの修正または補足の意見と質疑を出した。このように広範な全民的討論を踏まえて国の憲法を制定したのは、中国史上初めてのことであるばかりでなく、世界史においてもまれに見るものである。「憲法」は国の性質と国家機構の職能を規定し、公民の権利と義務を規定し、中国の民主と法制建設の土台を定めている。人民民主主義の基本的政治制度を確立し、これを健全にしたことは、人民が国の主人公となる権利を実現するために根本的な政治的保障を与えた。

    ――土地改革とその他の民主改革を実行し、人民を抑圧する古い制度、古い習俗をとり除き、さまざまな社会諸悪を一掃して、新中国の人権を発展させるために障害物を掃き清めた。旧中国では、農村人口の10%弱を占める地主・富農が約80%の土地を占有していたが、農村人口の90%以上を占める貧農・雇農と中農は約20%の土地しか持っていなかった。広範な貧しい農民を解放し、社会生産力を解放するため、新中国が成立すると、全国において勢い盛んな土地改革運動を繰りひろげて、封建地主階級の土地所有制を廃止し、農民の土地所有制を実施し、全国の3億余りの土地を持たないか少ししか持っていない農民に7億ムー(1ムーは6.667アール=訳注)の土地と大量の生産手段を無償で提供し、これまで毎年地主に納めていた約700億斤(1斤は0.5キロ=訳注) の過酷な小作料を免除し、広範な農民の経済的地位と生活状況を大いに改善した。これと同時に、国営工業・鉱山・交通運輸企業の生産と管理制度に対し民主的改革をおこない、官僚資本企業から残された封建ボス制など労動者を抑圧し奴隷扱いするさまざまな古い制度を廃止し、封建ギルドや地域的観念によって形成された隔たりをとり除き、工場管理委員会と従業員代表大会を設立して労働者を工場の管理に参加させ、企業管理の民主化を実現し、労働者が真に企業の主人公となるようにするとともに、古い賃金制を調整し、労働保険制度を推しひろめ、労働者と職員の福祉を向上させ、その生活を改善した。

    女性を解放し、封建的な婚姻制度の女性に対する差別と抑圧をとり除くため、新中国は1950年に最初の法律「中華人民共和国婚姻法」を公布し、親による結婚の強制、男尊女卑、子女の利益無視などの封建主義的な婚姻制度を徹底的に廃止し、男女の婚姻の自由、一夫一妻、男女平等、女性と子女の合法的利益保護などの新しい婚姻制度を実施するとともに、全国で「婚姻法」宣伝・貫徹の大衆運動を大規模に展開した。「婚姻法」の公布、宣伝、実施によって、男女平等と婚姻自由の思想が人びとの心に根づき、おびただしい封建的な婚姻関係が解かれ、女性を殴打したり、罵ったり、虐げたりする現象が速やかに少なくなり、女性の地位が大いに向上した。

    売買春、麻薬密売・麻薬吸飲、集団賭博などは旧中国から残されてきた社会悪であり、人民の心身と健康に害をおよぼす社会の悪習でもある。新中国は成立後、ただちに断固たる措置をとって、これらを禁止した。1949年11月、北京市第二期人民代表会議は率先して売春禁止の決定をおこない、すべての妓楼を閉鎖し、娼妓を集めて学習させ、教育を施し、彼女たちの思想改造、性病治療、労働技能の習得を助け、彼女たちが正常な生活をし、自分の労働で生活できる勤労者となるように導き、助けた。北京に次いで、全国の各大・中・小都市も次々と売春禁止運動を繰りひろげ、ごく短い期間内に、中国で3000年余りも存続してきた、ゆゆしく女性の心身と健康を害し尊厳を踏みにじる罪悪な妓楼をのこらず一掃した。旧中国の反動支配勢力や社会の暗黒勢力と密接なかかわりのある麻薬吸飲、賭博などの社会悪に対し、人民政府は大衆を立ちあがらせて、これらによって私利をはかる麻薬の製造者と密売者および胴元、博徒に手痛い打撃を与え、制裁を加える一方、宣伝・教育を広く展開して、大衆の自覚を高め、麻薬吸飲者、賭博常習者に麻薬と賭博を自覚的にやめるようにさせた。2〜3年の努力を経て、旧中国でいくら禁止しても絶えることのなかったこれら社会の疫病は新中国によって基本的に禁絶され、社会の気風もこれによって一新した。

    ――民族の抑圧と差別に反対し、民族の平等、互助、団結の関係を発展させ、民族区域自治制度を実施した。旧中国では、ひどい民族差別と民族抑圧が長期にわたって存在し、多くの少数民族が認められないために悲惨な境遇に置かれ、一部の者は山奥に逃げて世から隔絶された生活を送るしかないありさまであった。新中国が成立すると、民族抑圧と民族差別制度が徹底的に廃止され、少数民族は解放された。旧中国の長期にわたる民族抑圧によってできた溝をとり除くため、1950年から1952年にかけて、中央人民政府は少数民族地区に訪問団を派遣して見舞わせる一方、各少数民族参観団を組織して首都と祖国の各地へ見学、訪問に行かせ、これによって各民族間の理解を増進し、各民族間の感情を融和させた。1951年、中央人民政府は「少数民族に対する差別的もしくは侮辱的な性質を帯びた称呼、地名、石碑、額・対句の処理についての指示」を公布し、明文をもって少数民族に対する差別的、侮辱的な称呼、地名などを廃止した。また、民族平等の政策を貫徹、実行するため、中国政府は1953年から大がかりな民族識別調査活動を組織し、55の少数民族を認定、公表し、これによって各少数民族は史上はじめて祖国の民族大家庭の平等な一員となった。中国政府はさらに50年代から全国の公民のあいだで民族理論と民族政策の宣伝・教育運動を普遍的に展開して、民族の平等と団結を大いに提唱し、民族主義、とくに大漢族主義に反対した。

    これと同時に、少数民族地区の立ち遅れた経済・社会状況を変えるため、中国政府は少数民族地区で民主改革を積極的かつ穏当におこない、少数民族の願望を十分尊重し、その宗教信仰と風俗習慣を尊重、保護するという前提のもとで、彼らが立ち遅れた生産様式と社会制度を改革し、経済・文化事業の発展を援助して、各少数民族の社会発展をいくつかの歴史的階段を跳び越えさせた。制度面から少数民族の特殊な権益を保障するため、中国は少数民族が集中して居住する地区に民族自治機構をつくって民族区域自治を実施するとともに、1952年8月に「中華人民共和国民族区域自治実施要綱」を公布し、民族区域自治制度の実施に対し詳しい規定をおこなった。民族区域自治制度の成功裏の実施によって、祖国の大家庭における少数民族の平等な権利、および少数民族が自民族と本地区の事務を管理する自治権を効果的に保障した。

    ――社会主義制度を確立し、社会と経済の発展および人民の人権を享受する水準の向上を促した。新中国成立後、人民政府は土地改革とその他のさまざまな民主改革をおこなうとともに、強力な措置を講じて物価を安定させ、経済の発展を促し、わずか3年で戦争の傷あとを速やかにいやし、国民経済と人民の生活を史上最高の水準に回復させた。これを踏まえて、中国政府は時機を逸せずに農業、手工業、資本主義工商業に対する社会主義的改造を推しすすめて、人が人を搾取する社会制度を根本からとり除き、基本的な社会主義経済制度を確立した。中国人民はこのときから生産手段の主人公、社会の富の享有者となり、新しい国と新しい生活をつくろうとする意欲を燃え上がらせて、社会と経済の急速な発展および人民の生活水準の向上を促した。統計によると、1957年の全国の工業総生産額は1952年より128.3%伸び、年平均伸び率は18%に達し、農業総生産額は25%伸び、全国住民の平均消費水準は3分の1強向上した。社会主義制度の確立は、全国人民が平等に経済発展に参与し、労働の成果を分かち合うことを踏まえて人権状況をたえず改善するために基本的な社会制度の保証を提供した。

    新中国は、以上のような大きな社会変革を通じて、古きを改めてこれを新しくし、人権発展の歴史的転換を実現しただけでなく、今後のさらなる模索、人権事業の進歩と発展のために新しい一ページを切り開いた。