新疆の歴史と発展


三、歴代中央政府の新疆に対する管理




    新疆と中原地区は昔から密接な関係がある。前漢の初期に、西域各地は匈奴の統治下にあった。前138年、漢王朝の辺境地区で略奪を働く匈奴を撃退するため、漢王朝は張騫を使節として西域に派遣した。前121年、漢王朝の軍隊は河西回廊一帯に駐屯し、放牧していた匈奴軍を大いに打ち破り、漢王朝はその一帯に前後して武威、張掖、酒泉、敦煌の四郡を設置した。前101年、前漢王朝は数百人の軍隊を天山南部のロンタイ、ロプヌルなどに駐屯して農地開墾に従事させ、「使者校尉」という地方官吏を置いて統率させ、後に「使者校尉」は「護善以西使者」に改称された。

    前60年(漢の宣帝の神爵二年)、「西域都護府」が設置された。当時、匈奴の統治層内に動乱が生じ、西域を鎮守していた匈奴の日逐王賢は「その部下数万騎を率いて」漢王朝に帰服した。前漢王朝は鄭吉を「西域都護」に委任し、ウルリ(いまのロンタイ県にある)に駐屯させ、西域全域を管理させた。西域各地の首領と主だった官吏はみな前漢から官職を賜われた。西域都護府の設置は、前漢が西域で国家主権を行使し始め、新疆が中国の統一的多民族国家の一構成部分となったことを示している。

    後漢(25年〜220年)政府は西域でまず「西域都護」を置き、そのあと「西域長史」を置いて、引き続き天山南北各地に対し軍政管理を行った。221年、三国(魏、蜀、呉)の曹魏(220年〜265年)政権は漢王朝の制度を引き継ぎ、西域に「戊己校尉」を置いて、ゴーチャン(トルファン)を管轄させ、その後はまた西域長史を置いて、西域各地の多くの民族を管理させた。西晋(265年〜316年)末年、前涼政権(301年〜376年)創立者の張駿は軍隊を派遣して西域を征伐し、ゴーチャン地区を占領し、ゴーチャン郡を設置した。北魏王朝は善(シャンシャン)鎮、焉耆(イェンチー)鎮を設置して、西域に対する管理を強化した。

    隋・唐時期、中央政府は新疆に対する統治を強化した。6世紀末、隋王朝は中原を統一し、隋の煬帝(604年〜618年在位)は即位してから、まず吏部侍郎の裴矩を張掖、武威へ派遣して西域との通商を主管し、西域の民情を調査させた。608年、隋朝の軍隊は伊吾(イーウ)に進駐して、城郭を築造し、善(シャンシャン、今のローチャン)、且末(チェモ、今の且末の南西にある)、伊吾(イーウ、今のハミにある)の三郡を設置した。

    7世紀初め、唐王朝は隋王朝に取って代わって興起した。630年、以前は西突厥に属していた伊吾(いまのハミ)城主は所属の七城を率いて唐王朝に帰順し、唐王朝は西伊州(後に伊州と改称)を設置した。640年、唐王朝の軍隊は突厥について唐王朝に反対するゴーチャンの麹氏王朝(501年〜640年)を打ち破り、同地に西州を設置し、また可汗浮図城(Kaganbu、今のジムサル)に庭州を設置し、同年にゴーチャンに安西都護府を設置した。これは唐王朝が西域に設立した最初の高級軍政管理機構であり、後に庫車(クチェ)に移り、安西大都護府に改称した。唐王朝は西突厥を打ち破ったあと西域各地を統一し、702年庭州に北庭都護府を設置し、その後それを北庭大都護府に昇格させ、天山北麓と新疆東部地区の軍政事務を管理させ、安西大都護府に天山南部および葱嶺以西の広大な地区を管理させた。唐の玄宗(712年〜756年在位)年間に、唐王朝はまた二大都護府の上に当時の全国八大節度使の一つである「磧西節度使」を置いた。

    唐王朝の中央政府は西域各地で漢族と他の民族を別々に管理する制度を実行した。つまり漢族の人が集まり住む伊州、西州、庭州などでは、行政面では中原地区と同じような府、州、県、郷、里の管理制度を採用し、経済面では均田制」(唐王朝の田制)と「租庸調制」(唐王朝の租税制度)を推し進め、軍事面では「府兵制」(唐王朝の軍事制度)を実行した。漢族以外の人が集まり住むところには、「羈縻府州」を設置した。つまり現地の民族首領による行政管理制度を引き続き維持し、彼らに唐王朝の都護、都督、州刺史の称号を与え、以前の習俗に従って所属する人たちを管理するのを許した。同時に亀(グェーズ)、于(ユータン)、疏勒(スゥロ)、碎葉(一度は焉耆であった)で軍事制度を確立した。これは歴史上「安西四鎮」と称されている。

    五代・宋・遼・金時期に、中原地区の諸王朝が統治権を争奪するため西域を顧みる暇がなく、西域にいくつかの地方政権が並存する局面が現れた。そのうちの主なものは、ゴーチャン、カラ汗、ユータンなどの地方政権があり、これらの政権はいずれも中原の諸王朝と密接な関係を保っていた。

    ゴーチャンとカラ汗王朝は、ともに840年漠北の回鶻汗国が滅んだ後、西域に西遷した回鶻人が突厥語を話すその他の諸民族と連合して樹立した地方政権であり、前者はトルファン地区を中心とし、後者は天山南部、中央アジアの河中(Samarkand)などを含めて広大な地区を支配した。

    回鶻人が西域に住みつき、その樹立した地方政権が中原の王朝と密接な関係を保っていたことから、カラ汗王朝の統治者は「桃花石汗」と自称した。つまり「中国の汗」という意味で、自分が中国に属することを示した。1009年、ユータン地区を占領したカラ汗王朝は北宋(960年〜1127年)に使臣を派遣して贈り物を献上した。1603年、北宋はカラ汗王朝の可汗を「帰忠保順鱗黒韓王」に封じた。北宋樹立後の3年目に、ゴーチャンの回鶻は北宋に42人の使者を派遣して贈り物を献上した。

    ユータンは塞人の居住地であった。唐王朝以後、ユータンの尉遅王族が執政し、中原地区との往来が密接になり、唐王朝に封じられたことがあるため自らの名字を李と称した。938年、後晋の高祖は張匡、高居誨を使節としてユータンに派遣し、李聖天を「大宝ユータン国王」に封じた。北宋初期に、ユータンの使臣、僧侶がたえず宋朝に貢物を献上した。  

    元朝時期にジンギス汗は天山南北に対する政治的統一を完成した。蒙古汗はまず初めに「ダルガツ」(蒙古の官職名で、鎮守官という意味)、「ベシバリク等処行尚書省」などの軍政管理機構を設立して、西域に対し軍政管理を行った。元王朝は樹立後、西域各地の社会、経済を発展させると同時に、トルファン地区に提刑按察司を設け、その後はまたトルファンなど各地に交鈔提挙司(紙幣印刷機構)と交鈔庫などの機構を設置し、また「ベシバリク元帥府」を設けて同地に派遣する「新附兵」(元朝が捕虜にした南宋の兵士で編成した軍隊)の開墾事務を管理させ、そして軍隊をホータン、チェモなどに派遣して農地開墾に従事させ、ベシバリクに精錬所をつくって「農具を鋳造した」。ウイグル(元王朝は回鶻を「ウイグル」と称した)地区で「ムーを単位として税金を徴収した」。1406年、明朝はハミ衛を設け、地元ハミの氏族首領を各級の官吏に任用し、現地の軍政事務を管理させ、中国と西域との通商ルートの安全を確保し、西域のその他の地区をその支配下においた。  

     清朝政府の西域に対する統一の規模と管轄の範囲。 1757年、清朝は西北地区を長期にわたって割拠したジュンガル政権を平定した。2年後、清朝はイスラム教アクタリク派首領の大、小ホジャ(大ホジャはブルハニディン、小ホジャはホジャジャハ)の反乱を平定し、西域各地の軍政管轄を強固にした。管理制度の面では、1762年に設立した「イリ将軍」で天山南北各地に対する軍政管轄を統一的に行使し、官衙を「恵遠城」(今のホーチョン県)に駐在させ、それぞれ都統、参賛、弁事、領隊大臣を置いて各地の軍政事務を管理させた。清朝政府は「その地の事情に適し」、「その地の風俗に基づいて管理する」という原則にのっとって、天山北部の漢族と回族の居住区に対し郡県制管理を実行し、イリ地区と天山南部各地のウイグル族に対しては現地の「伯克(Baeg)制」を維持したが、伯克(突厥語、地方官吏の称号)の任免権は中央に属し、政治と宗教を厳格に分離させた。蒙古族およびハミ、トルファン地区のウイグル族に対しては、王、貝子、公などの世襲爵位を封ずる「扎薩克(Jasak)(蒙古語で、支配者という意味)制」を実行した。清朝政府は役人の任用面では満州族を主とし、各民族の役人を併用する政策をとり、経済面では農業を主とし、農業と牧畜業を同時に発展させる措置をとり、租税を軽減し、財政定額補助を確定するなどの制度を実行した。清朝の統治期間に、新疆の社会と経済は着実な発展をとげた。

     1840年のアヘン戦争後、新疆はツァーロシアなどの列強の侵略を蒙った。1875年、陜甘(今の陜西省、甘粛省)総督の左宗棠が新疆の事務を監督、処理する欽差大臣に就任した。1877年の年末に、清王朝の軍隊は中央アジアのコカント汗国(Fergana)のアクパエが侵略、占領した天山南北の各地を次々と回復した。1881年2月、清朝政府はツァーロシアに11年も強行占領されたイリを回復した。1884年、清朝政府は正式に新疆に省を設置し、「故土新帰」の意を取って西域を「新疆」に改称した。新疆省の設置は清朝政府が歴代王朝の新疆管理に対する重大な改革である。その時から、巡撫が新疆全域の軍政事務を管理し、新疆の軍政中心はイリから迪化(今のウルムチ)に移った。1909年に至って、新疆省は4道を管轄し、道の下には6府、10庁、3州、21県または分県が設置された。こうして、新疆の行政制度は中原地区とまったく同じようになった。

    辛亥革命が勃発した翌年の1912年、革命党人がイリで策動した武装蜂起は成功をおさめ、新伊大都督府を設立し、イリ地区における清王朝の政治統治の終結を宣告した。民国政府は成立してから、新疆の防衛事務をたえず強化した。

    1949年9月25日、新疆は和平裏に解放された。全国解放の情勢が発展し、新疆各民族人民の革命闘争の情勢が盛り上がるに伴って、国民党新疆警備司令官の陶峙岳、新疆省政府主席のブルハン(包爾漢)は帰順を宣言し、中国人民解放軍第一野戦軍第一兵団が王震将軍の指揮のもとで新疆に進駐した。1949年10月1日、新疆各民族人民は全国人民とともに中華人民共和国の成立を迎えた。

    以上述べたことを総合すると、漢王朝が前60年に新疆に「西域都護府」を設置してから、中国の歴代中央政府はいずれも新疆に対し軍政管轄を行った。歴代の政権の統治がきつくなったり緩くなったりしたため、新疆に対する中央政府の管轄もきつい時もあれば緩い時もあった。新疆の各民族人民は中央政府との関係を積極的に維持し、中華民族大家庭の形成と強固のために自らの貢献をした。