南京の避難民たちに「ミス・ヴォートリン」として親しまれた金陵女子文理学院の米国教授・ミニー・ヴォートリンは、非凡な女性である。今日でも多くの老人たちが彼女のことをよくおぼえていてなつかしがるのである。彼女は当時、南京の同胞たちの守護神であった。
南京安全区国際委員会の1937年12月17日の統計によれば、金陵女子文理学院に当時収容されていた女性と子どもは約4000人であり、のちには通路や軒下も人でいっぱいになり、約7000あまりにふくれあがった。
ヴォートリンは1912年、26歳のときに中国に教師として来た。南京で金陵女子文理学院教育学部の主任兼教務主任の職に任じた。彼女の学識、能力、人格は、すべての中国人の尊敬のまとであった。彼女は数千人をきちんと管理し、部屋番号の割りふり、飲食衛生から、正門の出入りにいたるまで、すべてに厳格なきまりがもちうけられていた。
目に血走らせた日本兵が銃をかまえて校門を押し入ろうとすると、ヴォートリンはまず説得を試み、それでだめなときは体で阻止しようとした。しかし、弱い教師に野蛮な日本兵を押しとどめるのは無理なことだった。兵隊たちは狂ったように獣欲を満たした。ヴォートリンは目に涙を浮かべた。彼女は報告、抗議することしかできない。
金陵女子文理学院は野獣のような日本兵の欲望のえじきになってしまった。彼らは暗くなると群れを成してへいを乗り越え、穴をあけて押し入り、まるでぬすっ人のように手さぐりで部屋に侵入してきた。叫び、泣く声が胸をえぐるようだった。美しさ、善良さが踏みにじられた。いつもなごやかなヴォートリンは激怒にかられた。鉄の門はぴったりと閉ざされた。日本軍の車が二台、女性の略奪のため校門を入ろうとしてカン高いラッパの音をひびかせた。ヴォートリンは星条旗をにぎりしめて、日本軍の車に立ち去るように言った。日本兵が車からとびおりて鉄の門をひきあげた。ヴォートリンは門の入り口にガンと立ったまま動かない。しかしトラックは突進してきた。その時、とっさの知恵で、彼女は手に持った星条旗を車の行く手に投げ出した。車は止まった。日本軍の車はアメリカの星条旗の上を踏みにじって通ることはできなかった。
ミス・ヴォートリンは彼女の生涯でもっとも貴重な年月を中国で過ごした。この勇敢で情熱的でたくましい女性は中国人と苦労を共にした。結婚はしなかった。彼女は自分の祖国以上に中国を愛していた。
「チャイナネット」資料