『朝日ジャーナル』に載った連載記事 1984年9月
1984年73歳になる福島県出身の田中三郎(仮名)が心の中をうちあけ、当時は両角部隊の下士官だった人で、『朝日新聞』の本多勝一記者がインタビューしていた。
1984年9月の連載記事「南京への道」は次のように述べている。
……捕虜の大群れは長江の川岸に集められた。ヤナギの木が点々としている川原である。……日本軍にかこまれ、たくさんの機関銃も銃口を向けている。このとき田中さんがいた位置は、丘陵側の日本兵の列のうち最も東端にちかいところだった。
……あたりが薄暗くなりかけたころ……一斉射撃の命令が出たのはそれからまもないときだった。半円形にかこんだ重機関銃、軽機関銃、小銃の列が捕虜の大集団に対して一挙に集中銃火をあびせる。射撃の音と集団からわきおこる断末の叫びとで、長江の川岸は強叫喚地獄、阿鼻地獄であった。田中さんは今なお忘れえない光景は、逃げ場を失った大群衆が最後のあがきを天に求めたためにできた巨大な「人柱」である。……一斉射撃は一時間ほどつづいた。立っている者は一人もいなくなった。
……生きて逃亡する者があれば、捕虜全員殺りくの事実が外部へもれて国際問題になるから、一人でも生かしてはならない。田中さんの大隊は、夜明けまで徹夜で「完全処理」のための作業にとりかかった。万単位の人間の生死を確認するのは大変だ。思いついた方法は火をつけることだった。……死体の山のあちこちに放火された。よく見ていると、死体と思っていたのが熱さに耐え切れずそっと手を動かして火をもみ消そうとする。動きがあれば、ただちに銃剣で刺し殺した。……燃えくすぶる火の中を、銃剣によるとどめの作業が延々とつづいた。
……この「作戦」で皆殺し現場を逃亡して生還できた捕虜は「一人もいないと断言できます」と田中さんは語る。
「チャイナネット」資料