16日まだ正午にならない時、突然、7~8人の銃を持った日本兵が来てついてくるよう指示した。華僑招待所の後ろの空き地まで来ると、数百人が地べたに座り込んでいた。午後5時ごろになると、5000人以上になっていた。日本兵の命令で四人一列になり、順次下関方面に進んでいた。着いた時はもう6時過ぎ、それから中山埠頭の河沿いの歩道に並ばされた。自分などは河を渡ってなにか使役をやらされるのかと思った。ところが、結果はあの未曾有の残酷非道な大殺りくであった。
新式の乗用車がやってきて、車から下りたのは高級司令官のようで、たくさんの帯刀者が前に駆けより敬礼した。司令官がなにか二言三言言いつけ、それから散開させた。同時に道路の中央には十数歩おきに機関銃が据え付けられた。約10分後に銃声が響き渡った。時刻は午後7時頃、それが大殺りくの始まりだった。殺りくは夜10時頃まで続いた。そばにいた増栄が殺されるのを待つくらいなら河に跳びこんで死んだほうがいい、とささやいた。自分は河に沈んで死ぬものと思ったいたが水際が水深が浅く、太ももくらいしかなくて死ねない。かといって深いほうへ進んでいくのはためらわれた。日本兵は、自分が河に身を投げたあとも容赦せず、機関銃を水に向けて掃射した。自分は水中に体を伏せていたが、急に右側からの銃弾が一発、肩甲骨の後ろから体を刺貫くのを感じた。
目撃者――今井正剛従軍記者の証言
川岸にやってくると、揚子江が力なく流れ、夜明けの近いころだった。埠頭は至るところ焼けこげた死体が折り重なるようにして山を築いた。その死体の山の間を50人から100人くらいのゆるゆると移動する人影があり、死体を水際までひきずってゆき、河の中に投げこんでいた。低い呻き声と、真っ赤な血、かすか痙攣している手足、そして全体をおおっている無言劇のような静寂がわたしに強烈な印象を与えた。
埠頭のあたりの地面はすべて血だまりになって、泥ねいに月光が反射してかすかに光を放っていた。
しばらくすると、死体の処理を終えた苦力たちは川岸に一列になった。続いてダダダ……と機銃の音が響き、ある者が仰向けに倒れ、ある者は前にのめって河に落ちていった(中文から翻訳)
「チャイナネット」資料