(1931年9月18日~1945年9月9日)
一九三一年
9月18日
日本軍、瀋陽以北の鉄道の部分区間を故意に破壊。これを以て戦争挑発をはかった。同日夜、瀋陽北大営の中国駐屯軍攻撃。これが「九・一八」事件である。
9月19日
早朝、日本軍、瀋陽城占領。国民党政府の不抵抗命令のため、遼寧省の主要な都市が幾日もたたないうちに日本軍により攻略される。
9月23日
蒋介石の演説。こともあろうに、軍民にしばらく「我慢する態度をとり、国連の公理による判決を待つ」よう呼びかける。
一九三二年
1月23日
錦州陥落。日本軍、わずか3カ月余りの時間で黒竜江・吉林・遼寧三省を占領。
1月28日
日本軍、上海進攻。上海駐屯の十九路軍、抗戦に立ちあがる。
3月9日
日本侵略者の扶植により「満州国」成立。退位した清の皇帝溥儀が執政となる。
5月5日
国民党政府、日本と売国的な『上海停戦協定』に調印。
一九三三年
3月
長城沿いの中国駐屯軍、河北省東部の喜峰口・古北口・冷口の各関所で日本軍に抵抗。
5月31日
国民党政府代表熊斌、日本軍頭目岡村寧次と売国的な『塘沽協定』に調印。中国軍、長城各関所から撤退をよぎなくされる。
一九三四年
11月7日
東北人民革命軍第一軍成立。楊靖宇が軍長となる。
一九三五年
6月9日
日本の華北駐屯軍司令官梅津美治郎、国民党北平(現在の北京)軍分会委員長代行の何応欽に中国軍の河北撤退などについて3つの要求を提出。
何応欽、7月6日梅津に返信。日本側の理不尽な要求を完全に承諾。
6月27日
国民党政府代表秦徳純、公文書交換の方式で日本軍頭目土肥原賢二と『秦・土肥原協定』に調印。これにより国民党軍、河北・チャハール両省を撤退。
8月1日
中国共産党中央、『抗日救国のため全同胞に告ぐる書』を発表。内戦を停止し、いく千万もの民衆が武装して日本帝国主義を打倒するよう呼びかけた。
12月9日
北平で学生愛国運動発生。3000人近くの学生集会、国民党武装警察隊に弾圧される。これがかの有名な「一二・九」運動。全国の各大・中都市の学生及び愛国同胞が10日から北平の学生を支援。1万人を超える北平学生が16日に再度デモ行進を断行、その後2万人を超える市民大会を開催。大会では、「日本帝国主義の中国侵略に反対する」などの決議を採択。「一二・九」運動は全国的な抗日の新たな高揚をもたらした。
一九三六年
9月1日
中国共産党中央、『蒋(介石)に迫って日本に抵抗させることについての指示』を党内に配布。
9月
日本軍、北平郊外の豊台で軍事演習。いいがかりをつけて中国軍との衝突を挑発。事後、日本軍が豊台へ増兵、豊台を占領、北平・天津間の交通要衝を掌握。
12月12日
国民党の愛国将軍張学良・楊虎城、共産党討伐手配のため西安に滞在中の蒋介石を監禁、蒋に抗日を迫る。これがかの有名な「西安事変」である。
一九三七年
7月7日
蘆溝橋事変発生。中国人民の抗日戦争、火ぶたを切る。
7月8日
中国共産党中央、蘆溝橋事変の全国通告電を公表。日本の侵略に対抗するよう呼びかける。
7月11日
日本政府、中国への増兵を決定。
7月15日
中国共産党、『国共合作の公表についての中共中央の宣言』を国民党に交付し、即時公布を国民党に要求。蒋介石、23日に同宣言公布についての談話を発表。中国共産党を認め、国共両党の合作・抗日を承認。
7月29日
北京陥落。
7月30日
天津陥落。
8月13日
日本軍、上海進攻、上海市街区を砲撃。上海軍民、抗戦に立ちあがる。
8月22日
中国共産党中央、洛川会議を開催。『抗日救国十大綱領』を採択。
8月25日
中共中央革命軍事委員会主席毛沢東・副主席朱徳・周恩来、国共両党の協議に基き命令を発し、赤軍を国民革命軍第八路軍への再編を宣告。朱徳が八路軍総指揮部総指揮、彭徳懐が副総指揮、葉剣英が参謀長、左権が副参謀長、任弼時が八路軍政治部主任、鄧小平が副主任となる。
8月31日
八路軍、黄河を東へ渡り、抗日の前線へ赴く。
9月6日
陝西・甘粛・寧夏辺区政府成立。
9月25日
八路軍115師団、平型関で日本軍を要撃、日本軍第5師団の1個大隊及び後方勤務兵を千余人殲滅。抗日戦争以来の最初の大勝利を収める。
10月2日
国民党政府、南方8省13地区の赤軍遊撃隊を国民革命軍陸軍新編第四軍(新四軍と略称)への再編命令を発布。
10月6日
アメリカ、日本の中国侵略反対についての声明を発表。
10月26日
日本軍、太原進攻の前哨戦として娘子関を攻略。
11月8日
日本軍、山西省省都太原を占領。
11月12日
上海陥落。
12月13日
南京陥落。日本侵略軍軍部、日本兵の強奪・殺りくを放任、殺害されたり生き埋めにされた中国民衆30万人以上・強姦事件2万件以上にのぼる凄絶悲惨な「南京大虐殺」を惹起。
一九三八年
1月6日
新四軍軍部、江西省省都南昌で成立。葉挺が軍長、項英が副軍長、張雲逸が参謀長となる。
3月23日~4月6日
中国軍、山東省台児荘で日本軍に大勝、2万余人を殲滅。
5月19日
日本軍、徐州を攻略。つづいて河南省開封・新鄭などを占領。
6月9日
国民党軍事当局、日本軍の鄭州進攻を阻止するため、鄭州以北の花園口(黄河)で堤防破壊の命令を下した。3000余平方キロに及ぶ地域が水没し、数知れぬ民衆が死傷したり行き場を失った。
9月29日~11月6日
中国共産党中央、延安で6期6中総を開催。会議では、抗日戦争対峙段階開始後の政治・軍事についての党の主要任務を検討。
10月21日
広州陥落。
10月25日
武漢陥落。広州・武漢の陥落後、抗日戦争は戦略的対峙段階に入る。
10月29日
汪精衛、ベトナムのハノイで通告電を発表、おおやけに国を裏切る。
一九三九年
2月中旬
日本軍、海南島を占領。中国を海上封鎖。
5月初め
日本軍、随棗の役を発動。武漢占領後の地固めのため随県・棗陽などを攻撃。
9月25日
第1回目の長沙会戦開始。これは、抗日戦争の対峙的初期段階における正面戦線の重要な戦役である。
10月24日
日本軍、南寧を占領。
一九四〇年
3月29日
偽「国民政府」、南京で成立。汪精衛が主席代行となる。
3月30日
国民党政府外交部、各国使節照会。汪精衛偽政権が無効であると厳正に声明。
8月20日~12月5日
八路軍、華北で百団(日本の連隊に相当、全部で約40万人)の兵力を投じる百団大戦を発動。この戦役が抗日戦争期における中国共産党指導下の、日本軍・カイライ軍にたいする最大規模の進攻であった。1824回の継続作戦により日本軍2万645人・カイライ軍5155人を殲滅。全国の抗日戦争に大きな役割を果たしたこの戦役は、中国共産党及びその指導下にある抗日軍隊が抗日戦争の中堅であることを立証。
9月27日
日独伊3国間の軍事同盟条約調印。
12月29日
アメリカ大統領ルーズベルト、「炉辺談話」発表。中英米3国の運命は不可分の関係と表明。
一九四一年
1月6日
国民党軍、安徽省南部で7個師団の兵力をもって新四軍を攻撃、内戦再開をはかった。史上これを「安徽省南部事件」と称する。
1月25日
日本軍、河北省豊潤県潘家峪を包囲討伐。村中の老若男女1230人を全員殺りく、残酷きわまりない「潘家峪大虐殺事件」を惹起。
10月下旬
日本軍、太行山区で大規模な「掃討」作戦を展開。
11月3日
日本軍、山東省沂蒙山区で兵力5万余人の大規模な「掃討」作戦を展開。
12月8日
日本軍の真珠湾奇襲。アメリカ海軍基地、被害甚大。日本、米ソ蘭への宣戦布告。太平洋戦争勃発。
12月9日
国民党政府、対日宣戦布告を発布、また独伊とも戦争状態に入ることを宣言。
一九四二年
1月1日
中英米ソ蘭など26カ国、アメリカのワシントンで会議を挙行。日独伊枢軸国への共同作戦及びこれら敵国と単独講和をしないむねの宣言に調印。
1月3日
蒋介石、連合国軍中国戦区総司令官となり、中国をはじめベトナム、タイからなる連合軍を指揮。
2月
中国遠征軍結成。イギリス遠征軍と協力して1回目のビルマ作戦に参加。
5月1日~6月30日
日本軍、岡村寧次の指揮下5万人余りの兵力を投じ、河北省中部平原で「五一大掃討」作戦を展開。
一九四三年
2月2日
ソ連軍、スターリングラードでドイツ軍を撃破。
9月6日
国民党5期11中総開催。
9月20日~11月3日
日本軍、3万人余りの兵力を投じ、河北・山東・河南根拠地に対して「秋季大掃討」作戦を展開。態勢をととのえた中国軍、臨機応変に戦術を駆使し、前後300回以上の作戦で敵軍1万1000人を死傷させる。
10月
中国遠征軍、2回目のビルマ作戦に参加。
10月下旬
常徳戦役開始。
12月2日
広東人民抗日遊撃隊東江縦隊成立。曾生が司令員となる。
一九四四年
3月
広東省瓊崖人民抗日遊撃隊独立縦隊成立。馮白駒が司令員兼政治委員となる。
4月17日
日本軍、大陸交通線確保のため50万人の兵力を投じ河南・湖南。広西への「1号作戦」を展開。
4月22日
鄭州陥落。
6月18日
長沙陥落。
8月15日
新四軍第4師団、西へ挺進。
12月
珠江デルタでは珠江縦隊成立。広東省中部では広東人民抗日解放軍中区縦隊成立。潮州・汕頭地区では韓江縦隊成立。
一九四五年
1月上旬
山西・チャハール・河北軍区、日本軍への春季攻勢を展開。
1月
太行軍区、日本軍への春季攻勢を展開。
2月1日
山東軍区、日本軍への春季攻勢を展開。
2月4日~2月11日
ヤルタ会談挙行。ソ英米3国首脳(スターリン、チャーチル、ルーズベルト)及び3国外相、ソ連クリミア半島のヤルタで戦後処理問題を討議。
4月20日
山西・山東・河南軍区、日本軍への春季攻勢を展開。
4月23日
中国共産党7回大会開幕。毛沢東、「連合政府について」と題する演説のなかで当時の内外情勢を論述。
5月2日
連合国側軍、ベルリン攻略。
5月8日
ドイツ、無条件降伏宣言。
5月12日
山西・チャハール・河北軍区、日本軍への夏季攻勢を展開。
6月5日
山東軍区、日本軍への夏季攻勢を展開。
7月26日
『ポツダム宣言』発表。中米英3国、共同宣言の形で日本に降伏を促す。
8月6日
アメリカ、広島に最初の原子爆弾投下。
8月8日
ソ連政府、ヤルタ協定に基き対日宣戦布告。同日夜、ソ連軍、国境線を越えて日本軍への進攻を開始。
8月9日
アメリカ、長崎に2個目の原子爆弾投下。同日、八路軍と新四軍、日本軍への大反攻を開始。
8月15日
日本天皇、全日本向けの「玉音放送」により『ポツダム宣言』受諾と連合国側への無条件降伏を表明。
9月2日
日本国、東京湾停泊の米艦ミズーリ号上で降伏文書に調印。
9月9日
岡村寧次、南京で日本を代表して中国に降伏する降伏文書に調印。
「チャイナネット」資料