フライングタイガーは「中国空軍所属の中国援助アメリカ志願航空隊」の略称であり、1942年4月に創設し、1946年4月、戦争終了後に解散された。創始者はアメリカ人飛行教官の陳納徳(シェンノート)氏であった。
1938年8月、宋美齢の求めに応じて、シェンノート氏は昆明市の郊外に航空学校を設立し、アメリカ軍の基準で中国空軍を訓練し、中国空軍の対日戦に積極的に協力した。
1941年、ルーズベルト政府のひそかな支持の下で、シェンノート氏は個人団体の名義で巨額の資金を出してアメリカ人パイロットとエンジニアを募集した。その年の7月と10月に、200余人もの勇敢で危険を恐れぬ隊員たちが、対日戦参加のために中国に来た。
31回の空中戦で、フライングタイガーの志願者は5機ないし20機のP-40型戦闘機をもって217機の敵機を撃墜し、みずからの損失はわずか14機だった。それ以後、「中国空軍所属の中国援助アメリカ志願航空隊」はフライングタイガーのマークを使い始め、そのサメの頭の形をした戦闘機も世に名を知られるようになり、「フライングタイガー」というニックネームも知られるようになった。抗日戦争が終わるまでに、フライングタイガーは敵機を2600機撃墜し、積載量223万トン相当の船舶、軍艦44隻、100トン以下の内陸河川の船1万3000隻を撃沈するかあるいは大破させた。また日本軍将兵6万6700人を撃ち殺した。フライングタイガーの隊員のほとんどは中国政府から賞を授与された。10余人の飛行士はアメリカ、イギリス政府から飛行十字勲章を授与された。
ここ20年来、生き残りの元フライングタイガーの隊員たちはしばしば中国を訪れ、困難や危険にめげず飛行機の残骸や戦友の遺骨を探すことに取り組んでいる。
「チャイナネット」資料