ヨーロッパ戦争勃発初期、参戦国はドイツとイギリス、フランス、ポーランドなどごく少数の国でしかなかった。その後、ドイツは前後してノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギーとルクセンブルグなどの国に侵入し、そして5月の中旬フランスに侵入、半カ月後には数十万もの英仏連合軍をヨーロッパ大陸から追い落し、6月22日にはフランスのペタン政府がドイツ政府と城下の盟を締結する時になっても、まだ戦争全体の範囲はヨーロッパ境界線をすこしも越えてはいなかった。あらゆる戦役はどれも一方的な形勢で、多くの侵略された国の軍隊は総体としての抵抗能力を喪失してしまい、圧力に抗しきれずやむなく武器を引き渡して投降した。前後9カ月間余にして、ヨーロッパの大部分は、独、伊ファシストの手中に入り、残されたのは身を局外に置いていたソ連とソ連に支配されたいくつかの弱小隣国でしかなかった。
ヨーロッパ戦争は開戦直後から第二次世界大戦勃発の起点であった。なぜならば、その当時、世界的範囲で事実上すでに互いに対立する二大勢力が顕在化していたからである。一方は独、伊、日ファシズム国家が主軸であり、もう一方は英、仏、中などの民主国家が代表であって、この勢力はアメリカなどの中立国の支持を得ていた。二大勢力形成の顕在化と対立の激化に伴なって、ヨーロッパ戦争とアジアにおいてすでに2年間継続している中日戦争とは、この時点ではすでに二つの単独戦争ではなく、徐々に一体化しはじめ、相互に牽制し影響しあい、ファシズムの力と民主の力とが全世界的規模でぶつかり合う2大戦線になっていた。特にヨーロッパの大部分が占領された後は、孤島を守るイギリスと抗日を堅持する中国とは、おそらく東西両側における全世界反ファシズム戦線を支える最後の2つの砦となっていた、独、伊、日ファシズムが全世界を支配しようとする罪深い陰謀を挫折させるため、すべての平和を愛する国家と人民はみなイギリスと中国の抵抗を支持していた。ただイギリスはこの時点で主としてアメリカの援助に頼り、中国はさらに多くの援助をソ連から受けていたにすぎない。
ヨーロッパ戦争が勃発する以前には、中国の抗日戦争は主に世界各国の民間的支持と援助を受けていた。この面では、欧米、東南アジアに生活していた愛国華僑はかなり重要な役割を果たしている。彼らは悲憤慷慨して経済的援助を惜しまず、積極的に帰国して戦闘に参加している。こうした力は国内人民にとって巨大な激励となったのである。しかし、軍事面においてもっとも直接的に中国の抗戦を援助したのはやはりソ連の政府と人民である。1937年9月から1941年6月までの間に、ソ連は中国に大量の軍用物資を提供し、まだ3回にわたって中国に合計2.5億ドルの貸付金の貸与を承諾し、中国は1.7億ドルを利用している。同時に、ソ連はまた中国に2000名の空軍志願人員を派遣して中国の対日作戦に参加させており、さらには中国のため、1万名に近い軍事技術者を育成、訓練している。これらのすべてがみな中国軍民の抗日の決意と力を増強せしめたのである。
英米両国は中国の抗戦がファシズムの抑止力であり、全世界の平和を守るために重要な意義をもっているという共通の認識を持ち、中国にある程度の援助を提供して、中国に戦争を継続させることを試みに企図した。ただ、最初両国政府は自国に戦火を飛火させたくはないので、中国にあたえた援助も限りあるものであった。1940年前半までに、英米両国が中国政府に提供した貸付金はわずか4500万ドルと50万ポンドでしかなかった。
英米両国が中国に対して大規模な援助を始めたのは、1940年9月23日日本軍がインド支那へ侵入し、9月27日独、伊、日3カ国が正式に同盟を締結した後である。日本は英米の反対を顧みず、インド支那に侵入し、侵略の矛先を英米などの勢力範囲に属する東南アジア地区に向ける決心を表明した。そのうえ、独、伊、日3カ国の盟約締結はファシズム国家がすでにヨーロッパ、アジア大陸で歩調をあわせ、共同作戦を準備し、その世界分割の陰謀を実現させようとする意志の表明であった。中国抗日戦争の役割もこれによってますます明確化してきた。中国の抗戦堅持を救援することは、ただ日本の南進を大きく牽制するだけではなく、さらには独、伊、日3カ国連合の力を弱め、英米などの国が太平洋地区で直面している戦争の圧力を軽減することになるからである。1940年9月から1941年4月にかけて、英米両国はそれぞれ中国に貸付金を三度にわたって提供することを公表し、合計金額は1.25億ドルと1000万ポンドに達している。
アメリカ政府はそのすぐ後に、貸与の形式で中国に各種の軍用物資を供給することを認可し、中国駐在の軍事代表団を組織して、アメリカからの対中援助軍用物資の輸送、管理責任を負わせた。中国政府が1940年10月提案した要請に応じて、アメリカ政府は直ちにアメリカのパイロットが中国へ行って志願隊に参加することに同意し、1941年8月1日、正式にこの志願航空隊を編成し、シェンノート大佐が指揮官を任命された。アメリカの感化をうけ、イギリスも積極的に中国援助の措置を講じた。
「チャイナネット」2005/04/26