中国の抗日戦争期において、1937年11月末、第1陣の旧ソ連のパイロットたちが中国に到着し、のちに直接南京での戦闘に身を投じた。ほとんどすべての正規の戦場では、勇敢で戦闘に長けた旧ソ連空軍志願隊の姿が見られ、自分たちより数倍も多い敵に直面しながらも、いつも進んで出撃し、1937年―1940年に中国空軍を助けて戦場の制空権を掌握し、鼻息の荒い日本空軍に手痛い打撃を与えた。日本軍は4年間に、軍用機986機、航空母艦1隻、巡洋艦1隻を含む軍艦100余隻を失った。日本軍の切り札といわれたパイロットたちの中の「四天王」と呼ばれる3人が撃墜された。それと同時に、ソ連志願隊の211名のパイロットたちもその命を捧げた。
1941年6月に独ソ戦争が勃発した。ソ連国内の情勢が緊迫したため、ソ連の対中国軍事援助の規模が逐次縮小し、ソ連空軍志願隊も次々と帰国することになった。同じ年の10月頃には、ソ連は中国に対する物資と人員面の援助を一応中止したため、空軍志願隊は中国を離れることになった。ここ4年間に、ソ連は延べ1091人のパイロットを含む3665人を中国の抗日戦争に送り込んだ。大まかな統計によると、派遣された飛行機は計1250機で、そのうちには爆撃機222機、練習機100機が含まれていた。指摘しなければならないのは、中国側は帰国した志願隊が残していたすべての装備の使用を完全に身につけると同時に、日本軍にとっての一定の抑止力ともなった。
1938年の武漢での空中戦で、ソ連空軍志願隊の犠牲者は100余人に達し、いずれも万国公墓に埋葬された。1956年に、15名のソ連兵士の遺体が解放公園に移され、記念碑が建てられ、手厚く埋葬された。それがつまり現在のソ連軍陣没兵士の墓である。墓の両側は青々と生い茂る樹林で、墓碑の後ろに400平方メートル近くの芝生地が広がっており、2列に並ぶ整然としたおごそかな低い松の木は、英霊を見守る兵士のように雄大でぴんと伸びている。墓碑は高さ約8メートル、敷地面積は1平方メートルで、石碑の正面に「ソ連空軍志願隊烈士墓」という10の金色の大きな文字が刻されており、人々を粛然とさせるものである。記念碑と向かい合っているのは墓の台座で、薄い青緑色の花崗岩の台座は長さが約32メートル、高さが3メートルで、その上に墓の碑文と陣没兵士たちの姓名が刻されている。
中ロの言語で刻された墓の碑文は次の通り
「1938年に、中国人民が日本ファシズムの狂気じみた侵略にさらされた時、ソ連人民は自らの優れた子女――ソ連空軍志願隊をなんの私心もなく中国に派遣し、日本ファシズム侵略に反対する中国人民の偉大な正義の闘争を援助してくれた……」。
歴史はすでに過ぎ去ってはいるが、あのただならぬ歳月は依然として人々を感動させるものである。
「チャイナネット」2005/05/16