1952年 |
2月5日、中華全国体育総会は、IOC宛の書簡で「中華全国体育総会は第十五回オリンピック大会に参加することを決めた。中華全国体育総会は中華人民共和国を代表しうる唯一のスポーツ団体であり、台湾国民党残存反動グループのスポーツ代表を含むその他のいかなるスポーツ団体も、中国を代表しうる合法的代表になることはできず、第十五回オリンピック大会に参加させることは認められない」ことを明らかにした。 2月13日、中華全国体育総会の盛之白代表はノルウェーのオスロで開催されたIOC第46回会議の席上、「中華全国体育総会は引続きIOCに参加する」ということをテーマとする書面での発言を配布した。。 3月23日、中華全国体育総会の栄高棠秘書長はFIBA(国際バスケットボール連盟)、IAAF(国際陸上競技連盟)、FINA(国際水泳連盟)、FIFA(国際サッカー連盟)および国際自転車連合会に書簡を送り、「1949年に中華人民共和国が成立した。その時点から、もと『中華全国体育協力促進会』が『中華全国体育総会』に変わった。『中華全国体育総会』は中国人民を代表しうる唯一の合法的なスポーツ組織として、スポーツ関連の諸国際組織、会議および試合に引続き参加するとの決意をも明らかにした。台湾にある国民党残存反動グループが『中華全国体育協力促進会』の名義を盗用して行ういかなる行為も受け入れられることはできない」とそれぞれ明らかにした。 4月25日、FINA(国際水泳連盟)から中華全国体育総会に届いた書簡は、中華全国体育総会が元『中華全国体育協力促進会』にとって代わり、同連盟のメンバーになることを認めた。 5月7日、FIBA(国際バスケットボール連盟)から中華全国体育総会に届いた書簡は、中華全国体育総会が中国のバスケットボール界を代表し、同連盟のメンバーになることを認めた。 6月10日、毛沢東主席は中華全国体育総会第二回代表大会のため、「体育運動を発展し、人民の体位を増強する」という題辞をしたためた。朱徳副主席は「生産と国防のために人民の体育を繰り広げる」という題辞をしたためた。 6月14日、FIFA(国際サッカー連盟)は中華全国体育総会に宛てた書簡で、中華全国体育総会が元『中華全国体育協力促進会』にとって代わりを替え、同連盟のメンバーになることを認めた。 6月20日から24日にかけて、中華全国体育総会第二回代表大会は北京で開催された。参加した代表たちは中国の六大行政区(東北、西北、華北、中南、華東、西南など)の分会の代表、中央関係部門および大衆団体の代表、計140人。会議は今後のスポーツ事業の方針・任務を重点として討議し、中華全国体育総会の委員を選出し、朱徳副主席を中華全国体育総会名誉主席に一致して選出した。そのほか、馬叙倫氏を主席に、韋■、蕭華、劉寧一、李徳全、栄高棠、馬約翰の諸氏を副主席に、栄高棠氏を秘書長(兼任)に、黄中氏を副秘書長に任命した。 6月24日、中央国防スポーツクラブが北京で創立された。 6月30日、中国教育部、中国衛生部、人民革命軍事委員会総政治部、中国共産主義青年団中央、全国総工会、全国婦女連合会、全国青年連合会、全国学生連合会などの8部門は中華全国体育総会代表大会で採択された「今後の体育事業の任務・方針」を貫徹することについて共同の通達を発布した。 7月14日、中華全国体育総会の栄高棠氏、董守義IOC中国委委員はIOCおよびIOCのアイドストロン主席に電話で、7月16日に開催される同委員会の第47回会議で中華全国体育総会(中国オリンピック委員会)を認めるかどうかということを改めて論議することや、同委員会が国民党残存反動グループの選手を第15回五輪に招いたことに厳重なる抗議を提出、孔祥熙(キ)と王正廷のIOC委員としての資格を剥奪することを断固として要求した。 7月15日から8月30日にかけて、ポーランドの男子・女子バスケットボールチームが団長カソシニック氏の引率のもと、中国を訪問した。 7月16日、中華全国体育総会の盛之白代表はフィンランドのヘルシンキで開催されたIOC第47回会議の席上、国民党残存反動グループのスポーツ関連組織および孔祥熙(キ)と王正廷をIOCから追い払い、中華全国体育総会の合法的地位を引き続き認め、ただちに中華全国体育総会によって派遣される代表選手を招くよう要求した。 7月17日、IOC第47回会議は中華人民共和国の代表選手を第十五回五輪に招くことを決めたが、それと同時、台湾国民党残存反動グループの選手も招くことになった。 7月29日から8月7日にかけて、中国スポーツ代表団一行40人は団長栄高棠氏、副団長黄中氏と呉学謙氏の引率のもと、フィンランドのヘルシンキで開催された第十五回五輪に参加。しかし、代表団が妨害によって遅く到着したため、試合に参加したのは水泳選手だけであった。にもかかわらず、8月3日から8月7日にかけて、中国スポーツ代表団はフィンランドで訪問試合を行った。ヘルシンキでの滞在期間に、中華全国体育総会は国際サッカー連盟、国際バスケットボール連盟、国際水泳連盟の代表会議および体育教育会議に出席した。 8月1日から11日にかけて、中国人民解放軍「八・一」建軍記念日25周年記念スポーツ競技大会が北京で開催された。毛沢東主席、朱徳副主席、周恩来総理らの中国共産党および国家のリーダーが開幕式に出席。朱徳副主席は開幕式であいさつを述べた。スポーツ大会には、陸上、水泳、重量挙げ、自転車、バスケットボール、バレーボール、サッカー、野球、体操、競馬、ポロ、、オートバイ、飛行機による特技発行、飛行機からのパラシュート降下などの試合およびエキジビションが行われた。大会の期間、70万あまりの観客が試合を見た。朱徳副主席は「鋼のような体を鍛えて、われわれの最も愛すべき祖国を守ろう」という題辞をしたためた。 中国サッカーチームは団長黄中氏の引率のもと、8月7日から13日にかけてソ連、8月15日から9月3日にかけてポーランドを訪問した。 9月9日から13日にかけて、中国男子バスケットボールチームは団長康力氏の引率のもと、ルーマニアのブカレストで開催された「国際学生連合会理事会」の創立を記念するスポーツ競技大会に参加。 9月14日から16日にかけて、全国水泳競技大会が広州で開催された。 10月12日、アジア卓球連合会は中華全国体育総会に「中華全国体育総会を同連合会のメンバーとして受け入れる」ことを明らかにした。 10月12日から16日にかけて、全国卓球競技大会が北京で開催。試合を通して、1952年度の卓球代表選手を選出。選出されたのは姜永寧、馮国浩、楊開運、欧陽維、王伝耀、李宗沛、岑淮光、陸漢俊などの8人、候補選手は夏芝儀、李仁蘇、王吉禄。女子選手は孫梅英、李麟書、柳碧、丘宝雲、方亜らの5人で、候補選手は趙迺才、郭応偉、邱鐘恵さんら。 10月28日、中華全国体育総会はFIVB(国際バレーボール連盟)の暫定メンバーになった。1954年1月11日、同連盟が明らかにしたところによると、中華全国体育総会は正式メンバーになった。 11月8日、華東体育学院(1956年、上海体育学院に改名)が中国初の体育学院として上海で創立。これは南京大学、金陵女子文理学院および華東師範大学の体育学部からなるもので、国家体育委員会に直属する高等体育大学であり、全国的範囲での中等学校の体育教師や他の体育人材を育成することを目標としている。学院の総面積は25万平方メートル、主な建物は教学ビルディング、解剖医学ビルディング、陸上、武術・重量挙げのトレーニング施設、二つの体操トレーニングルーム、二つの球技館など。 11月15日、中央人民政府委員会第19回会議によって、「中央人民政府体育運動委員会」が発足。賀竜氏を同委員会の主任に、蔡廷鍇(カイ)氏を副主任に任命した。 12月9日から27日にかけて、インド卓球チームが団長ラマヌキン氏の引率のもと、中国を訪問した。 この年のうちに、二万人の観客を収容できる上海の虹口スタジアム、成都市人民スタジアムが落成した。 「■」は「殻」の下に「心」 「チャイナネット」 2005年9月
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