寒食節はちょうど冬至の翌日からかぞえて百五日目にあたり、昔の人はみな寒食を百五といった。杜甫の『百五日の夜に月に対す』という詩は、このことを裏付けている。「家無くして寒食に対す、涙は金の波の如し」。また、姚合の『寒食書事詩』には、「今朝は百五なり、戸を出で雨初めて晴れる」とある。寒食節と清明節はすぐつづいているので、人々はこの二つの祭日を混同しがちであるが、そのじつ、古代では寒食は一つの独立した祭日であった。隋・唐の時代には、多くの寒食を清明の二日前に固定し、宋代には三日前と定めていた。
言い伝えによると、寒食節の起源は次のような歴史物語に由来するそうである。今を去る二千年ほど前の春秋・戦国時代に、晋国の君主・晋の献公の息子の重耳は、迫害されて外国に逃れ、十九年間も流浪生活を送り、数え切れない辛い目にあった。彼に従がっていた者たちは、その苦しさに堪えかねて、大方は自分たちの活路を求めて離れていった。ただ介子推とその他五、六人の者が、忠義の心厚く、苦しみを恐れずにずっと彼に従っていた。重耳が肉を食べたいというと、介子推はひそかに自分の腕の肉を切りとって、煮て彼に食べさせた。のちに重耳は秦国の国王・穆公の助けをえて、晋国の国王になった。重耳はずっと自分に従って亡命していた者たちに論功行賞を行い、それぞれ諸侯に封じてやった。介子推は母親と相談して、富貴を求めない決心を固め、綿山に入って隠居した。その後、晋の文公・重耳は彼のことを思い出し、自ら車に乗って捜しにいったが、なん日捜しても介子推母子の行方はわからなかった。晋の文公は介子推が親孝行なのを知っていたので、もし綿山に火を放ったならば、きっと母親をたずさえて山から逃げ出してくると思った。けれども介子推は功を争うより死を選んだ。大火は三日三晩燃えつづけ、山ぜんたいを焼きつくした。文公が人を遣わして見にいかせたところ、介子推母子は一本の枯れた柳の木に抱きついたまま焼死していた。文公はこの母子の死を心からいたみ、綿山に厚く葬り、廟を建立し、介山と改名した。そして介子推の自分に対する情誼を永遠に記念するために、その柳の木を切りとって持ち帰り、木のくつを作らせ、毎日眺めては悲嘆にくれた。「悲しきかな、足下よ!」
のちに人々は、自分に親しい友人に手紙を送る時、「××足下」と書いて、厚い友情を示すようになった。晋の文公は、介子推の生前「士は甘んじて焚死しても公候にならず」という志を通した高尚な人となりをたたえて、この日には家ごとに火を使わず、あらかじめ用意しておいた冷たい食べ物を食べるように、全国に命令をくだした。長いあいだにこれが次第に風習と化し、独特な「寒食節」となって受けつがれた。寒食の日には、人々は先祖の墓に詣でて故人をしのび、亡き霊を祭ることにしている。
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