月を祭る風習
中秋節には、全国的に月を祭る風習がある。遠い古代の原始部落でも、月光の冴えた夜に、かがり火を囲んで踊り、農作を祝ったが、これが月を祭る風習のはじまりであろう。文献に記載されている内容によると、少なくとも晋の時代に、すでに月を拝み、明月の光を借りて夜通し遊んだ風習があったようだ。その後、歴代の帝王にも秋に月を祭るしきたりができ、中秋の夜に音楽を奏して月を祭り、豊作を祈った。祭日の内容は時間の推移につれて、たえず豊富多彩になっていき、中秋節はしだいに民間の祭日にとりいれられるようになった。北宋の『東京夢華録』によると、当時、北宋の都・汴京(いまの開封)では、毎年中秋の夜は特別ににぎやかだった。酒屋の店頭は美しく飾り立てられ、灯篭をかかげたり、色とりどりの絹で造ったアーチをたてたりして、貯えてあった名酒を売りだした。果物屋は初物のみずみずしい果物を店いっぱいに並べ、夜の市は空前の盛況を呈し、市民たちは争って酒楼に席を定め、他人より先に月をめでるのを快しとした。

中秋の夜は皓月が空にかかり、さわやかな風が涼をもたらし、木犀の芳香が人々の肺腑にしみる。この良宵に家々では庭に祭壇を設け、しゅんの果物、たとえばスイカ、りんご、ぶどう、なつめ、梨、栗などを山盛りにして供え、その他にゆでたての枝豆や五香落花生、芋なども供える。そしてまん中に、家族の人数にあわせて等分に切り、またそれをもどした大型月餅を供える。香炉には生の枝豆をたてて、月の中の月桂樹になぞらえる。すべてが準備できてから、一家の者がかわるがわる月に向かって拝む。いわゆる月を祭るとは、月の宮殿にいる嫦娥に遥拝するので、嫦娥は女性だし、月は太陰に属しているので、仲秋の主祭者は一般に女性がなる。このため中国では「男は月を拝さず」という言葉がある。月を祭りおわると、一家の者は祭壇をかこんで坐り、お供えの品物をわけて食べ、世間話に花を咲かす。年寄りたちは月の宮殿の神話を語り、子供たちは目を丸くして、興味しんしんと永遠につきない物語に耳をかたむける。

明・清代の皇帝は、毎年月を祭る行事をした。なかでも清の慈禧太后(西太后)の月を祭る儀式は、その規模がいちばん大きく、仲秋の夜に満朝の大臣、宮女たちが、西太后をとり囲んで頤和園の排雲殿の前で月を祭る大典を行った。供える品物は精選した月餅、七節の蓮根、各種の果物の他に、特に直径数尺に及ぶ大きな「月華」(帝王と皇后は「餅」と「病」の発音が近いのを忌んで、宮中では月餅を月華と呼ばせた)をつくらせて供えた。その表面には広寒宮、月桂樹、嫦娥などの図案を刻んだ。お供えの中には、御膳房(宮中の料理を作る所)の名コックが腕をふるって、大きなスイカを蓮の花がひらいたように切った。「蓮華団らん瓜」と命じた芸術品もあった。これを蓮の花の形の大きな銅の皿にのせて祭壇に供えた。月を祭ったあと、大きな月餅を小さく切って、このスイカといっしょに妃嬪や太監、身近かの侍女たちに分け与えた。それから帝王と皇后はみなといっしょに竜船に乗り、昆明湖に遊んだ。これを「泛舟賜宴」と称し、船上には天下の珍味が並べられた。この時、湖上には花火があがり、湖面には蓮華灯篭に火がつけられ、月見の宴はクライマックスに達する。

いま、北京の阜成門外にある月壇公園は、明の嘉靖九年(一五三〇年)に建築された。帝王が月を祭った遺址で、その主体建築物は月を祭る壇台で、この他に月を祭る一連の設備、鐘楼、具服装、神庫、宰牲亭、神厨などがそなわっていた。

 
 

 

 

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