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中日友好はこうして始まった 新中国から初の訪日団
道を開く

 ――もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ……魯迅の名言である。戦後の中日友好もまさにそのとおり、なにもない所から、一人一人の歩みが道を築き上げたものだといえるだろう。

 初の代表団が東京に到着したその夜、記者会見で廖承志が語った言葉を、私は今も鮮明に思い出すことができる。彼は見事な江戸っ子なまりの日本語で、魯迅のこの言葉を引用し、重ねて強調したのだった。「我々が前進すれば、中日友好の道は必ず開かれる。アジアの平和のためにも、中日友好協力は、我々の急務である。そして両国の友好のためには、ただ理屈だけによるのではなく、実際的な努力をしなければならない」。彼のスピーチに、居合わせた人々は、どれほど強く共鳴したことだろう。

 第二次世界大戦の終結と日本の中国侵略戦争の失敗は、中日両国の侵略と被侵略の歴史に幕を下ろし、両国の人民の間に伝統的な友情をよみがえらせる状況は整いつつあった。

 新中国成立後、多くの日本の有識者は、新中国との友好と中日貿易を望んでいた。新中国誕生以前に、早くも日本には、「中日貿易促進会」(1949年5月)、「中日貿易促進議員連盟」(同)、「中日貿易会」(同6月)など、中国に関する貿易、経済の組織が結成されていた。(のち、「中日」を「日中」と改称)そして新中国成立一年後、日中友好協会が設立された。労働者、農民、青年、婦女、それに与党の議員などを含む、日本の各界、各階層の人々は、その後も日中友好と日中貿易促進するべく努力を続けていた。

 しかし、当時の日本政府は、アメリカの圧力に屈し、新中国への経済封鎖を実施、1951年には、新中国とソビエトを排斥し、「片面講和」と批判された「サンフランシスコ平和条約」に調印した。そして翌年には、「日華平和条約」に調印、蒋介石とのいわゆる「外交関係」を樹立、「二つの中国」を造り出すことに公然と力を貸し、中日国交正常化を自ら阻んでいた。

 アメリカと日本の反新中国の姿勢を挫き、中日国交を正常化するため、周恩来総理は、「民間先行、民を以って官を促す」との対日方針を打ち出した。1952年4月、周総理は、モスクワ国際経済会議に出席する予定だった。南漢宸(当時、中国国際貿易促進委員会会長、中国人民銀行総裁)、雷任民(同、貿易部副部長)に対し、高良とみ、帆足計、宮腰喜助の三国会議員にモスクワで落ちあい、訪中の要請をするよう指示を出した。そして三氏は、要請に応えた。しかし日本政府は、日本国民の訪中に対しても妨害を加え、モスクワへの旅券申請を認めなかった。まず高良氏はフランス経由でモスクワに渡り、続いて二氏はデンマーク経由でようやくモスクワに向かった。そしてモスクワを経て、ようやく中国に到着、三氏は新中国成立後、最初の日本からの客人となった。戦後中日関係の記念すべき第一歩の始まりだった。

 1953年1月26日、日本赤十字社、日中友好協会、平和連絡会(まとめて「三団体」と呼ばれる)は、訪中代表団を組織し、中国の日本人居留民の帰国に関する話し合いのため中国を訪れた。新中国成立のごく早い時期、中国政府は人道主義に基づき、中国に残っていた日本人の帰国問題を考慮していた。1950年冬、李徳全は、モナコで開催された国際赤十字会会議に招かれ、周総理の指示に基づきその場で、島津忠承・日本赤十字社社長に接触した。52年12月1日、中国は日本に対し、ラジオ放送を通じて、日本人居留民の状況を調査した結果を公表した。

 その内容は、一、現在中国には約三万人の日本人居留民が残り、政府の保護を受け生活も安定している。二、帰国の意思があるものについては、中国政府が協力する。三、日本は中国紅十字会と協力するにふさわしい機関は、および民間団体を派遣することができる、といったものだった。ニュースは、日本各界に大きな反響を呼び起こし、日本の「三団体」は、代表を組織し、話し合いのために中国を訪れることになった。中国側も代表団を組織し、団長には廖承志が選ばれた。北京大学で仕事をしていた私も選ばれ、それは私の通訳としての生涯の始まりとなった。

 双方の話し合いを経て、1953年3月5日、中日双方は声明に署名し、日本政府が舟をさしむけ、日本人居留民の帰国を迎えることになった。当時は朝鮮戦争の最中で中国経済は非常に困難な時期だったが、中国政府は、自ら日本人居留民の所在地から港までの費用を負担し、彼らの所持品の持ち帰り、及び外貨の交換に対し、便宜を計ることを提案した。3月23日、第一団3,968人が、日本政府がさしむけた「興安丸」に乗り舞鶴港に到着、帰国を果たした。53年10月の第7次まで、中国紅十字会は人道主義に基づき、2万6千人の日本人居留民を次々に帰国させた。

 同時期、大谷螢潤、赤津益造、三浦頼子などの日中友好協会および仏教会の有志は「中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会」を組織し、日本軍国主義により拉致され、強制労働に従事させられたのち死に至った中国烈士の遺骨5千柱を中国に送りもどした。当時まだ未婚の少女だった三浦頼子の両親は娘の身を心配し反対したが、中日友好に貢献したいという彼女の志はかたく、それは今日に至るまで変わらないという。

 日本の多くの華僑青年も、「興安丸」に乗って祖国に帰国を果たした。かれらはその後、仕事や学習を続け、各界で専門家として活躍、中日友好方面にも多くの人材が貢献した。

 こうした中国政府の友好姿勢に感謝の意を表するため、「三団体」は、中国紅十字会代表団の訪日要請を決議した。

 本来は、答礼の意味合いが強い訪日要請だったのだが、吉田内閣は、アメリカの圧力と台湾当局の反発を恐れ、なかなか許可しようとしなかった。日本人有志は中国紅十字会訪日の実現にむけて国民運動を展開、日中貿易促進議員連盟と衆参両院の海外法邦人引揚特別委員会が中心となり、国会に代表団訪日要請を提案、衆参両院は、「中国紅十字会代表招請に関する決議」を可決した。こうして20ヶ月を経て、1954年10月30日、中国紅十字会代表団は東京、羽田空港に到着した。団長、副団長のほか、メンバーには、伍雲甫、趙安博、倪裴君、紀鋒、蕭向前、それに随行記者として呉学文、代表団通訳として楊振亜と私が同行した。

「竹のカーテン」は開かれた

 李徳全団長が飛行機のタラップを下りたとたん、飛行場は、歓声とカメラのシャッター音に包まれた。この時こそ、日本人が「人民中国」から使者を迎えた最初の瞬間だった。それまでの日本の世論は、新中国を「竹のカーテンのむこうの神秘の国」と評していたほどだったから、出迎えた日本に人々の目には好奇心があふれていた。

 その場には、島津忠承・日本赤十字社社長など「三団体」の代表、居留民の家族代表、大山郁夫など各界名士、与野党の議員、それに在日華僑の代表千人などが集まっていた。マスコミ関係者だけでも百人以上がつめかけ、押し合いへしあいする大騒ぎになっていた。警備の人々は緊張のあまり大声をあげ、人々が代表団に近寄らないよう、ひっきりなしに注意する。

 突然、1bほどの細長い棒が団長の目の前に突き出された。私は見たこともなかったこの道具に驚いて、なんとか取り押さえようとあわてたが、これは実は記者が差し出したマイクだった。李団長は、歩きながら「みなさん、こんにちは。私達は中国人民の友情を携えてやってきました」と大きな声で話し、併せて飛行場で演説の原稿を配布した。飛行場の外には、「五星紅旗」の小旗をさかんに振って歓迎する人々が大勢集まっていた。それは東京、横浜からやってきた華僑で、飛行場には入れなくても一日だけでも祖国の人々を眺めようとしていたのだ。

 私は途中、香港で起きたひと悶着を思い出していた。直通ルートがなかった当時、私達は香港経由で日本に向かったが、駐香港日本総領事は、私達の訪日ビザの国籍の欄に「中共」と書いていた。何日もの論争を経て、彼はようやく別紙の上に「中華人民共和国」と記し、もとのビザの上にはさんでよこした。こんな経緯があったから、日本国内でこれほど多くの人々が「五星紅旗」を振って私達を歓迎してくれることに、私は感動しないではいられなかった。海外の同胞の祖国への思いが初めて身に迫ってくるようだった。

 代表団は、日本に13日間滞在した。その間、東京、名古屋、京都、大阪、神戸、横浜などの大都市を訪問し、19回の日本各界、団体、地方代表連合主催の国民歓迎大会、各種座談会、17回の歓迎宴会や茶話会、13回の記者会見やテレビ、ラジオのインタビューをこなした。毎日朝、昼、晩は歓迎の宴席、午前と午後は各種歓迎大会か座談会という具合だった。とうしてもスケジュールに組み込めなかった団体などについては、午後四時ころの茶話会を設け、やっと人々の歓迎に応えることができた。

 毎日朝7時にホテルを出て、戻って来るのは夜10時過ぎ、まさに一分一秒を争う日程になった。ある統計によると、当時、こうした国民大会や座談会に出席した日本人は7、8万人にも上ったという。代表団の日程は、連日、新聞のトップ記事を飾り、そこには宿泊先のホテルから一人一人の部屋番号まで詳しく書かれているほどだった。

 代表団はどこにいっても人々の歓迎を受けた。例えば、代表団が東京から名古屋への汽車に乗ると、途中すべての駅に、中日両国の旗と赤十字の旗、それに「歓迎中国紅十字会代表団訪日」の垂れ幕が掲げられているほどだった。汽車が各駅に停車するのは、ほんの一分ほどだが、当地の代表は必ず汽車に乗って来て、心を込めて作った折り鶴や、歓迎の言葉を記した色紙、それに中国での尋ね人の手紙を私達に託した。そして多くの人が下車に間に合わず、次の駅まで私達につきあうことになるのだった。

 名古屋から京都、大阪に車で向かった時は、歓迎の人々の数はさらに勢いを増した。約50キロの沿道は、人波であふれていた。そして人々は「竹のカーテン」を向こうの新中国人がいったいどんな様子なのかと目を凝らしていた。

 李団長は、連日のハードスケジュールをものともせず、車窓から延々と手を振り続け、人々の歓迎に応えていた。団長は皺一つない晴れやかな顔に、金縁の眼鏡、灰色がかった緑の緞子に薄緑を縁飾りを施したチャイナドレス。髪はきちんとなでつけられ、温かく、また穏やかな人柄を感じさせた。私は模様入りのチャイナドレスで、その傍らにいた。人々は道端で私達を眺めては、いろんな感想を話し合っていた。「ごらんよ!“中共”の人達は、私らとなんにも違わないよ」。汽車の中では、そんな声がはっきりと聞き取れた。

 廖副団長は、訪日前、団員達が各自準備した衣装を実際に着てみせる「リハーサル」を行なった。私は訪日のために、紺のウールの学生服と灰色のスーツをあつらえていた。ところが廖副団長は、冗談めかして「お嬢さん、そんな服は棺桶に入るときにしなさいよ」といい、急いで私に2枚のチャイナドレスを仕立てさせた。来日して初めて、彼のこうした配慮の意味が分かった。――中国紅十字を通して、両国人民は初めて「竹のカーテン」を開けることができたのだ。

人民は友好しよう

 出発前、周総理は代表団に接見し、代表団が日本に着くことができれば、それはすなわち成功であると言われた。初訪日団の目的は、日本人民に中国人民の平和への思いを信じてもらうこと。そして友好関係を深め、今後の相互の友好訪問を増やすための基礎を築くことだった。

 また代表団は日本側との話し合いを通じて、居留民の帰国問題について便宜を計ること、と同時に中国に拘置されている日本の戦犯リストを日本側に渡す任務も負っていた。また日本の華僑達に対し、彼らの愛国精神を鼓舞するとともに、滞在する国の法を遵守し、政治的紛争に参加しないよう働きかける任務もあった。総理はまた、代表団の全ての行動、全ての発言は、中日友好の精神に基づくよう、接待先のプランを尊重し、多少疲れても出来る限り努力して先方の意向に沿うように、と指示した。各方面の要求に応えるため、接待先は苦心を重ねて日程を組んでいるに違いないのだ。

 日本赤十字社の名誉副総裁であった三笠宮殿下、高松宮妃は代表団に接見され、中国人民の友好姿勢と人道精神に感謝の意を表明された。堤康次郎・衆議院議長、河井弥八・参議院議長は、それぞれ代表団と会談し、日本と中国ができるだけ早い時期に友好関係を樹立し、文化、貿易方面で交流を深めることが両国の平和と繁栄につながるものだと強調した。代表団は厚生大臣・草野隆園、国務大臣・安藤正純、それに関東、関西両地区の経済界の実力者、そして文化芸術方面の有力者とも会談の場を持った。植村甲午郎・経済団体連合会副会長は、現在の経済に関する状態では、正常ではなく、近い将来、多くの人々の努力によって必ずあるべき状態をとりもどすことだろうと語った。学会の長老的存在である大内兵衛(経済学)、安部能成(哲学、教育学)、末川博(法学)の三氏は、アジア人同士を敵対させる現在の政策は、決して許せるものではない、日中両国の正常な関係を早急に回復させるべきだ、と主張した。日本政府は出来る限りの方法で、新中国との往来を回避していたが、外務省、通産省の官僚

たちは、手を尽くして代表団と接触しようとしていた。初代駐華日本大使となった小川平四郎氏は、当時、代表団と接触した外務省中国課長である。

 私達は、中国人民の友好への願いを日本に伝え、日本ではまた友好をのぞむ各界、各階層の強い声を聞き、中日友好の基礎は、すでに築かれているという結論に達した。

 「人民中国」2000年11月号より

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