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承徳の避暑山荘
承徳は北京の北東230`のところにあり、北京駅から快速列車に乗ると、およそ五時間で承徳駅につく。渤海湾に注ぐ川、武烈河沿いに広がる町は、清の時代の初め頃はまだ小さな寒村だったが康熙四十二年、つまり西暦1703年、朝廷がここに行宮を建ててから次第に発展してきた。今では承徳は中国四十四ヵ所の風景の名勝地となっている。その避暑山荘と山荘の外に建てられた外八廟と呼ばれるお寺は国連の世界文化遺産に指定された。 避暑山荘のまたの名は熱河行宮、承徳離宮で、町の北部にある。広さ5、6平方`、周囲を囲む塀の長さは10`で北京の頤和園の2倍にあたる。この山荘の建設が始められたのは康熙42年、西暦1703年でそれから89年間わたり、建築は続けられた。 この離宮四つにわかれている。それぞれ宮殿区、湖洲区、平原区、山岳区と呼ばれる。正面の麗正門をくぐるとすぐに宮殿区に入る。ここの主な建物は正宮で昔皇帝はここで政務を執ったり儀式を執り行ったりしていた。麗正門から三つ目の門、正宮門の上には「避暑山荘」と言う金文字の額が掲げられている。これが康熙帝自ら名づけ、そして書いたと言われる有名な額だ。 正宮門の北側には正宮主殿、澹泊敬誠殿があり、くきの木の銘木使って建てられているため、中に入ると清清しい香りが心の底まで染み込んでくる。更に北に歩みを進めていくと、皇帝の寝所、煙波致爽殿にいたる。この名は、康熙帝自ら名づけたと言われている。はじめて康熙帝がこのあたりを見たとき、周囲は山に囲まれ、大きな湖が広がって真に空気の爽やかな所だといい、それをそのまま、御殿の名前にしたのだそうだ。寝所のしつらえも凝ったもので、この中には金、銀や玉の器、時計、骨董品、書画などの名品が千点もあるそうだ。 宮殿区のほか、湖洲区、平原区、山岳区があり、清い水、しだれ柳、湖に点在する小島、雅びやかなあずまや、まるで南方の水郷を思わせるような風景で訪れ人の目を楽しませてくれる。 ところで、康熙47年以降、代代の皇帝は毎年夏から秋にかけて決まってここに滞在し、政務を執るようになった。そして中秋のごろに、秋の狩猟大会を開くのが恒例となったのだ。そこでモンゴルやチベットなど少数民族の首領や外国の使臣たちもここで皇帝に謁見し、狩猟に参加するようになった。当時、清朝政府は中央と地方の関係を緊密にし、国家の統一を強国なものにするため、いろいろな政策をいちだしていた。モンゴルやチベットなどの支配層の信仰を尊重したのもその一つだ。その一つの現れとして、少数民族の首領や外国の使節たちがここに来た時に困らないよう配慮して山荘の外に八つのお寺を建てた。 その中で一番有名なのは普寧寺で、敷地はおよそ七ヘクタール、前の部分は漢族の七堂伽藍風、後ろがチベット族の三摩耶廟風で、典型的な漢とチベットの建築様式を備えたものとなっている。 普寧寺に千手千眼の観音像がある。高さ22,28メートル、重さが11トン、世界最大の木の像で、顔に三つの眼があり、この眼はそれぞれ過去、現在、未来をみているといわれている。 外八廟の中でもうひとつ有名なのは小ポタラ宮と呼ばれる普陀宗乗之廟だ。外観はチベットのポタラ宮に似てはっきりとした中心軸がない。高さ42,5メートル、幅59,7メートル、地形を巧みに利用して建てた。

「国際放送局」より

 

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