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蘇州の古典庭園の美しさ(7)滄浪亭
滄浪亭は人民路滄浪亭街通り3号に位置し、1963年に蘇州市の文化財保護指定を受け、1982年に江蘇省文化財保護指定を受けた。

滄浪亭はもともと五代中呉軍の節度使孫承右の池館であったが、その後荒れはててしまった。

北宋の慶歴4年(1044年)、詩人の蘇舜欽が弾劾されて罷免され、呉中に寓居し、4万の銭で孫氏の庭園を買い取り、北側に滄浪亭を築造し、みずから滄浪翁と号し、「滄浪亭記」を書き残している。

南宋昭興の初期、滄浪亭は金王朝に抵抗した名将韓世忠のものとなり、「韓園」と改名された。韓氏は二つの山の間に橋を架け、「飛虹」と名づけた。山の上には連理木、寒光堂、冷風亭、運堂が建てられ、せせらぎには濯纓亭のほか、梅亭「瑤華境界」、竹亭「翠玲瓏」、桂亭「清香館」などの名所があり、慶元年間にも残っていた。

元の時代に、滄浪亭は僧房となり、僧侶の宗敬は滄浪亭の跡に妙隠庵を建立した。至正の年間になって、僧侶の善慶はその東側に大雲庵(結草庵とも称される)を建立し、南禅集雲寺の別院でもある。

明の洪武24年(1391年)に、南禅集雲寺に住んでいた僧侶の宝曇は妙隠庵、大雲庵をそれに合併させた。嘉靖13年(1534年)に、知府の胡纘宗は妙隠庵を韓蘄干祠に変えた。25年、結草庵の僧侶文瑛が滄浪亭を再建した。

清の康煕の頃に巡撫の職にあった王新はここに蘇公祠を築造することを命じた。34年(1695年)に、巡撫の宋犖が滄浪亭を再建した。乾隆皇帝が中国南部を巡幸した際ここに泊まったことがあり、滄浪亭の南側に拱門と御道をつくったことがある。道光8年(1828年)に、巡撫の陶澍が滄浪亭の南西側に「五百名賢祠」を築造したが、太平天国の戦争の時に破壊された。同治12年(1873年)に、巡撫の張樹声、布政使の応宝時が滄浪亭を再建し、その南側に「明道堂」を建てた。「明道堂」の裏の西側には五百名賢祠があり、祠の南側には翠玲瓏がある。滄浪亭の北側には水軒、静吟亭、藕花水榭がある。また、聞妙香室、見心書屋、印心石屋、看山楼、仰止亭もある。

光緒の初め頃には、庭園の中にまだ僧房があった。光緒の末期に、洋務局に借用された。民国期の初め、修志局に使われたことがある。1927年に、蘇州美術専科学校の顔文樑校長が滄浪亭の保管係として招聘された。再建後に、蘇州美術専科学校が転入した。蘇州が日本軍に占領された時、日本軍が滄浪亭を占拠したため、ひどい破壊をこうむった。1954年に、蘇州市園林管理処が修繕工事をおこない、1955年に一般公開された。

何回もの盛衰を経た滄浪亭は、面積は1万1000平方メートルで、門の前の水面は4862平方メートルである。五百名賢祠は周の時代から清の時代までの2400年間の呉郡の著名な賢者594人の石像を集め、後世に模範として伝えられるようになった。季礼、伍子胥、白居易(白楽天)、範仲淹、文天祥、韓世忠、唐伯虎、文徴明、況鐘、林則徐らの石像があり、高い文献的価値がある。

「チャイナネット」2002年3月6日

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