蘇州市婁門内の東北街通り178号に位置し、1961年に全国の重要文化財保護指定を受けており、明の時代に築造された。史料によると、庭園の所在地一帯は、三国期の呉の郁林太守であった陸績の邸宅、東晋の時代には高士戴顒の邸宅、唐の末期の詩人陸亀蒙の邸宅、北宋の頃の山蔭県主薄の胡稷言の五柳堂など多くの知名の士の邸宅であった。元の時代に大弘寺が建立され、張士誠という人が蘇州に住んでいた時、その婿の潘元紹がここに附馬(皇女の夫)府を築造した。明の時代の御史王献臣は官職を辞して蘇州に隠居し、正徳4年に、もとの大弘寺をふまえて庭園に拡充し、「拙政園」と名づけた。
王献臣が亡くなった後、庭園の主は何度も変わった。王献臣の息子の一夜の賭博で、庭園は徐の姓という人に譲り渡す羽目になった。徐家は5世代にわたってこの庭園で暮らしていたが、その後、家運が傾き庭園は荒れ果てることになった。崇禎4年に、侍郎の王心一が庭園の東側の荒れ地0.67ヘクタールを買い取った。清代の初期、銭謙益という人が妻の柳如是のために庭園の西側にある家屋を買い取った。順治10年に、大学士であった海寧の陳之遴がこの庭園を買い取って修繕したが、康煕元年に、庭園は官府に取り上げられ、相次いで駐防将軍府、兵備道行館として使われた。その後、明の軍人呉三桂の婿の王永寧の邸宅となり、斑竹庁、娘娘庁、楠木庁などが建てられた。康煕18年に、蘇松常道署として使われた。康煕23年に、康煕帝が中国の南部を巡幸した際この庭園を訪れた。乾隆の初期には、庭園の中部は太守蒋欹の所有となり、修繕が施されおこなわれて、「復園」と名づけられた。西側は太守葉書寛のものとなり、「本園」と名づけられた。その後程、趙、汪という姓の人たちの所有となった。嘉慶25年に、平湖の呉敬の所有となり、その時に「呉園」と称された。咸豊10年に、太平天国の蜂起軍が蘇州に攻め込み、忠王李秀成が西側の潘家、汪家を忠王府とし、拙政園は全て王府の範囲に属すことになった。同治2年に、清の軍隊が蘇州に攻めこみ占領したとき、園の中央部は役所に売られた。同治10年に、江蘇巡撫の張之万が呉園に住むことになり、同治11年に「八旗奉直会館」として使われ、依然として「拙政園」と称された。光緒3年に、園の西側は豪商張覆謙の所有となり、「補園」と改名された。
辛亥革命の頃、拙政園で江蘇臨時省議会が開催されたことがある。1938年に、日本の侵略の時代のかいらい江蘇省政府がここで執務室を置いた。日本が降服した後は、国立社会教育学院の校舎となったことがある。新中国成立後、江蘇省南部行政公署の蘇州特派員公署として使われた。1951年に拙政園は蘇南区文化財管理委員会の管理下におかれることになった。その時になると、庭園の中にある小飛虹と西側の曲廊などは倒壊し、見山楼が朽ちはてて傾き、あずまやや楼閣は破損していた。その後、蘇南文館会が資金を調達し、もとの姿に基づいて修復し、中部と西側を貫通させた。1952年10月に完工し、11月6日に一般公開された。1954年1月に、庭園は蘇州市園林管理処の管理のもとにおかれた。1955年に東側を再建し、1960年9月に完工した。こうして、拙政園の東、中、西の三つの部分が再び一体化された。
拙政園は400余年を経る中でいろいろな変化があった。現存する建築物のほとんどは太平天国の頃かその後に築造されたものである。庭園の規模はきわめて大きく、現存する蘇州の古典庭園の中でトップとしての存在である。庭園の面積は5万1950平方メートルで、東、中、西の三つの部分に分かれ、南側には住宅がある。水面が庭園の面積の三分の一を占めている。
庭園にはクロマツ、キンモクセイ、青楓、クスノキ、ハクモクレンなどかなりの樹齢の木々が植えられ、竹が植えられた土手、水の流れ、丘、遠い島とよいコントラストをなしている。主な建築物としては蘭雪堂、芙蓉榭、天泉亭、秫香館、放眼亭(「補拙亭」とも称される)などがある。天泉亭の中には「天泉」という古い井戸があり、元の時代の大弘寺の遺物であると伝えられている。
著名な観光スポット:香洲、小飛虹
「チャイナネット」2002年3月19日