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巨大な変化をとげた北京
今年2000年は新しいミレニアムの最初の年だが、建国51年を迎える中国にとっては、新しい半世紀の始まりでもある。日本のテレビでもしばしば紹介されているように、この節目の年に、首都北京は大きく変貌した。新しい空港ターミナル、環状道路、延伸された地下鉄、アジア最大のオフィスビル群となった東方広場、西単交差点南北の時代広場と文化広場、多くの新しい景色が次々と生まれてきている。これらあまりにも急激で広範な変化に、地図の出版社はいくら改版してもいたちごっこだと悲鳴を上げる。環境の激変は北京の人々にどのような変化を与えているのか、以下の文章から多少読み取れるだろう。

昔の北京

わたしは1927年生まれ。家は鼓楼の裏にあって、祖父はじょう白旗(清朝の「戸口制」で、臣民を兵籍に編制し、正黄、正白、正紅、正藍、じょう黄、じょう白、じょう紅、じょう藍の8旗に分けた)の武官だった。北京には内城と外城とがあり、日が暮れると城門を閉め、お巡りさんが警備していた。午後五時ごろ、城門を閉じる時刻を知らせる太鼓が鳴り始める。西直門が最初人を通すだけのすき間を残して閉じられ、しまいにどんとかんぬきが掛けられるのが新街口からも見えた。よほどのことがない限り朝まで開かない。物品を城内に持ち込む時は城門で税金を取られた。そのため夜中に城壁越しにたばこや酒を持ち込む人がいた。小さいころはよく城壁の下で遊んだものだ。はい上がってなつめの実を摘んだりもした。城壁は造りが頑丈で、高さ九丈九尺(33b)、厚さは四台の馬車が並んで走れるぐらい、と大人から聞かされた。れんがは明朝御用達の窯で焼いた立派なもの。後に取り壊したのはもったいないことをしたと思う。人力車夫をしていた時、外国人が住む所でラッパを鳴らすと罰金を取られた。租界だから。日本占領時代にはいまの東四十条の北に日本軍の司令部が設けられ、日本兵が立っていた。前を通る時はお辞儀をしなければならなかった。亡国の民なのだ、しかたがない。高い塀には機関銃がこっちをにらんでいた。(杜広沛 北京人民芸術劇院舞台設計者、俳優73歳)

北京解放の前後

1946年10月、山東省主席何思源が北京(当時は北平)市長に就任、わたしは彼の秘書になった。日本は北京を8年間支配した。(日本が敗北し、国民党の統治下に入って一年余り)町はもうめちゃくちゃ、至る所がごみだらけ、山のように積んである所もあった。何思源はまず5カ月をかけて数100万dものごみを処分した。1948年秋以後、いよいよ北京にも戦火が及んだ。町は人民解放軍に包囲され、人々は南方に逃げ始めた。このとき何思源は市長職を退き、わたしは財政局に移った。勝負は決まっている、国民党はもうだめだ、戦っても始まらないと言って、何思源は北京に残った。辛亥革命以来何度も内戦が繰り返されたが、北京で戦闘が起こったことはなかった。抗日戦争の時は「国土を焦土にしてでも戦い抜く」覚悟で抵抗した。しかし、中国人同士が北京を焦土にして戦うことはない。そこで何思源は許恵東(北平市政府参議院院長)らと連合して北京の平和解放を目指して活動を始めた。傅作義(国民党の華北共産党討伐軍総司令官)も彼らに支持を表明、地元の新聞は毎日のようにこの動きを追った。傅作義はその前から部下を派遣して秘密裏に共産党と接触している。和平交渉は成功した。しかし、何思源はそのために大きな代価を支払った。末娘が軍統(国民党政府軍事委員会調査統計局)の特務の爆弾テロによって殺されたのだ。人々はお嬢ちゃんのことを 「平和の花」 と呼んだ。北京のス和的解放は素晴らしい、理ォの勝利と言うべきだ。この歴史を振り返る時人々は、北京は千年の古都、明・清両代の歴史的建築や文物古跡を戦火にさらさずに済んでよかった、とよく言う。だがそれよりも、300万人の市民、数十万人の兵士と公務員が無事だったことはもっと意義が大きいのではないかと、わたしは思う。(丁嵐生 北京文史研究館館員87歳)

建国後の都市建設

わたしは上海人。1956年に大学を卒業して北京都市計画院に配属された。都市計画は好きではなかった。建築を専攻した人はみな設計職を望む。記念碑のような作品が残るから。でも首都に来て都市計画の仕事をするのは光栄といえば光栄だった。当時はまだ城壁が残っていた。北京に着いて前門駅で汽車を下り、正陽門をくぐると、目の前に天安門広場が現れた。まるで夢のようだった。普段東城区から自転車で計画院に出勤する時は、いつも景色の一番いい道を選んだ。高層建築は少なく、昔の北京の面影がよく保存されていた。わたしが赴任した時は、都市計画について議論が真っ二つに分かれ、論争が白熱化していた。行政の中心を旧城内に置くべきか、それとも西郊外に移転すべきか。城壁をどうするか。結局行政府は旧城内に残すことになった。経済的な条件の制約で仕方がなかっただろう。わたしは城壁に関する調査をやった。1960年代に入った時点で、内城の城壁はほぼ完全であった。城壁をめぐる議論はずっと難航した。政府は断固と取り払うと言い、梁思成ら学者たちは城壁に特別な思い入れがあった。これには潜在的な原因があると思う。過酷な解放戦争時に、多くの戦士たちが城壁の下で倒れて行ったのだ。城壁の問題は長い間決着がつかず、実際取り壊しが始まったのは1965年地下鉄工事が始まった時。わたしなどは内心賛成し兼ねたが、政治運動の中でわが身さえ危うい、城壁にこだわる余裕はない。文化大革命中に計画院そのものが撤廃され、都市計画どころではなかった。1972年計画院が復活してからようやく仕事が軌道に乗り始めた。現在北京の建設は急速な発展を遂げている。しかし一方、文化大革命時代の破壊はひどく、都市の近代化を進めると同時に、どうやって古都の面影を残すかが緊急課題になっている。(董光器 元北京都市計画設計研究院副院長64歳)

奇跡的に現れたアジア選手村

わたしは学校に行ってないので話は苦手だ。1980年代に東北から朝陽区の大屯公社(郷)に嫁いで来た。主人は農民。来たばかりのころは舗装した道はなかった。辺り一面に麦畑が広がり、市内に通じる358番の郊外バスがあるだけ。この辺にアジア選手村を造ると聞いた時、ありえないと思った。ところが旧い建物の取り壊しが始まり、郷政府庁舎の辺りにアジア選手村ができることが分かった。大勢の労働者が集まって来て、工事が何年か続いた。わたしの家の近くの細い道が、地下通路もある広い第四環状道路になった。選手村が出来上がった後、郷の工場から切符をもらってみんなで見に行った。高いビルディングがいっぱい! アジア選手村がわたしの目と鼻の先に出来るとは思いも寄らなかった。主人は郷鎮企業から不動産会社に移り、高層建築の水道とスチームの保守の仕事になった。給料は上がり、子どもの戸籍は農民から都市者に変わった。いまや都心と少しも変わらない。地方から来た人や外国人たちがこの辺のマンションやアパートを賃借して住んでいるので「金持ちが住んでいる地域」とも呼ばれる。大屯郷は町になった。この夏、息子が大学を受験するので調べて見ると、この辺りには大学が結構たくさんある。正直な話、わたしもずいぶん世間のことをいろいろ分かってきたものです。(譚鳳春 亜辰工業公司職員42歳)

北京の酒吧街

異国情緒 三里屯は、北京の東部、各国大使館の密集している地区にある南北1`ほどの遊歩道。道沿いに酒吧(洋風の酒場)やレストランが20軒余り目白押しに並んでいる。近くの横丁にも数十軒が散在している。日が暮れると、立ち木に飾り付けた電飾や店頭のネオンが一斉にともる。店の前庭に色とりどりのパラソルと、テーブルが出ていて、ビールの広告の旗が風に揺れている。音楽が流れるなか、店に入る人や庭のテーブルに座る人が多くなり、ウエートレスが忙しく飲み物を運んで回る。10時過ぎるとだいたい満席になる。夏の週末なら朝のトレーニングに早起きする人たちが姿を現す午前4時か5時ごろ、この街はようやくひっそりとする。北京で洋式の酒場が一番集中している通りで、「酒吧街」と呼ばれている。外国の旅行案内書にも紹介された。日本では「北京のシャンゼリゼ」と書いた新聞もある。三里屯の酒吧街の出現で北京のナイトライフが変わった。

酒吧のマネージャの中には海外留学の経験者が多く、外国の酒場文化をよく知っている。「狂歓之都」のマネージはヨーロッパで100以上の酒場を見て回った。「大衆空間」のオーバー、ヘンリー・李さんはオーストラリアに留学していた時、一流ホテルでアルバイトしたことがある。酒場の経営者には香港、台湾、日本から来ている人もいる。

数年前までは、北京で夜も営業する店は少なかった。洋風の酒場は外国の映画でしか知らなかった。90年代の初め、各国大使館員のために三里屯に、最初の酒場が開かれた。くつろいだ雰囲気と異国情緒に引き付けられて訪れる中国人もだんだん多くなり、店も増えてきた。

こうした洋風の酒場は大使館の多い三里屯、日壇路、大学の多い西部の海淀区の三カ地区に集中している。「郷謡(カントリーミュージック)」「硬石(ハードロック)」「CDカフェ」「少男少女」……。どの店も懐古か前衛か、荒削りな造り、つくろいだ雰囲気とそれぞれ独特な内装を凝らしている。ビリヤード、ダーツ、積み木のコーナーを設けている所も多い。テレビと音楽設備は欠かせない。小さなステージがあって、バンの生演奏を聴かせる店もある。

リラックス 三里屯の酒場の中でもカフェはヨーロッパ風で、日本の喫茶店によく似ている。アメリカ式に大音量でカントリーミュージックを演奏する酒吧も少なくない。ゆっくり話をしたい人はカフェ、みんなと大いに盛り上がりたい人にはアメリカ式の店がもってこい。この街で唯一の日本式酒吧は日本人ミュージシャン「ファンキ」が聞いた「JAZZYA」だ。店に入ると、渋谷や下北沢でよく耳にするジャズ音楽が流れてきて、東京の街にいるような錯覚が起きる。郷愁を誘うリズムを楽しむ北京駐在の日本人がよく訪れる。レコードで懐かしいメロディーを聞きながら話を弾ませて、日中のストレスを発散させる。別世界にいるような気がしてならない。あるアメリカ人の常連は「くにに帰ったような気がする」と言う。

酒吧を訪れる外国人は、大使館員や外資系企業の従業員、留学生、観光客。中国人客はホワイトカラーと芸能人が主で、何人か連れ立ってくる客が多い。常連の中には週に三、四回来る人もおり、仕事の疲れの解消には最適だという。

缶ビール一本20元(1元は約15円)、コーヒー一杯20元、普通のサラリーマンにはぜいたくなお値段だ。大学生にはちょっと手が出ない。誕生パーティーにでも招かれなければ酒吧のナウい雰囲気を楽しむことはできない。海淀区に住んでいる王夏田さんは「旅行もいいけど、バスや船に乗るのに気を使うし、十分リラックスできない。それだけの金を酒吧で使うなら、コクテルを何杯も飲めるし」と言う。外資系会社に勤める于さんも酒吧族だが、両親に喜ばれていない。一回酒吧に行く金でネスカフェを買えば、半年も飲める、とよくいさめられる。ジェネレーションギャップか。

三里屯の酒吧街ではよく恋のドラマが演じられる。張さんがこんな話をしてくれた。「三年前、大学の楊さんは酒吧でデンマークから来たカストさんと出会いました。カストさんはあこがれの中国女性のイメージにぴったりの楊さんに一目惚れして、熱烈プロポーズ。楊さんは今も毎週末、夫のカストさんと思い出の酒吧に通っています」

酒吧祭り おしゃべりは酒吧族の最大の楽しみである。天下国家を論じ、天文、地理から、世間話までおしゃべりをしてリラックスするうちにやがて病み付きになる。

98年夏のワールドカップは時差の関係で試合の中継はほとんど深夜二、三時。家族の邪魔にならないようテレビを見るのを遠慮するファンもいた。そこで酒吧のマネージャたちは気を利かせて店でテレビの中継を見せた。酒を飲みながら観戦し、議論したり叫んだり、にぎやかな一カ月だった。酒吧を楽しむのは今や都会人の新しいライフスタイルとなっている。

酒吧は中国語で「九八」と発音し、「末長く栄える」という意味とかけている。北京で初めての酒吧祭りが1998年9月8日から開かれた。夜九時八分、市内の400軒余りの酒吧は一斉にスーパードライをあけて互いの交流と連帯を示した。祭りの10日間、ライブ演奏、バーテンダーの実演など、店ごとに得意のプログラムを用意して、客を引き付けた。

水と緑の豊かな都市に

北京に詳しい人ならよく知っているように、川や湖というものは、北京旧市内では大公園以外にほとんど見ることができなかった。故宮の四周をとりまく筒子河は、水がないわけではないが、黒く濁ってしかも臭い。隋代から造り始めた京杭(北京=杭州)大運河も、一部区間では水が流れていたが、あとは一年のほとんどが渇水状態にある。北京は、水不足のため緑が少ない。日当たりが強すぎ、風やほこりがひどいため、人々とくに若い女性などは、肌が荒れてしようがない。

しかし北京の水不足は、実を言うと、今世紀に入ってからの現象なのだ。戦国時代には燕国の都で、豊富な水に恵まれ、水利の便がよく、土地は肥沃だった。はるか後の清代になっても、北京はまだ水が足りていた。その証拠に、北京には水に関する地名がたくさんある、と専門家は言う。蓮華池、積水潭、高梁橋、三里河、紅橋……水があることだけでなく、船が通ることさえできた。例えば、1292年に完成した世界的に有名な通恵河は、500年以上も江南からの食糧輸送船の航路となっていた。

状況の変化は、鉄道輸送が始まって漕運が中止され、清朝が崩壊した今世紀の初めにおこった。多くの湖沼、池、窪地などが水田となり、葦の群生や泥の沈殿は見られなくなった。その後も人口が増加する一方、建設のテンポも加速するばかりで、これらがまた北京の水源・水質に悪影響を与えた。ある統計によると、1999年3月現在、都市部水系の80%が汚染され、一人当たりの水資源は300立方bに過ぎない、という。

1998年4月20日、北京市水系総合整備事業が開始された。国と北京市が合計31億を投じた第一期事業は、中心部水域の整備で、総延長48`に及んだ。工事の内容は、下水流出口を閉鎖し、また川底に沈殿した汚染土砂を除去して水をきれいにし、護岸工事を行い、水利施設を改造し、老朽家屋を撤去し、環境を緑化する、など。これらの事業を通じて最終的に洪水防止、供水、水環境の問題を解決し、「水がきれいで流れがよく、岸は緑に包まれ、船が通航する」という目標の実現をめざした。

この水利プロジェクトは、北京にとって新中国建国以来最大のものだった。一年余りの工事の結果、昆玉河(昆明湖−玉淵潭)と長河(昆明湖−高梁河)に定期観光船が誕生した。

距離は、昆玉河が10`、長河が8キロ、所要時間はともに約40分。川面にはもちろんごみひとつなく、両岸の草木も、頬をなでる風も、すべてがしっとりとして、やわらかい。それらを通して古い塔や亭閣が見え隠れし、むさ苦しい老朽住宅や不潔なごみ捨て場などはきれいに除去されている。水とはおよそ縁の遠かった北京市民は、始めて水の上から見た「わが町」の姿に新鮮な驚きを体験したのだった。

とりわけ長河ルートの方は魅力的だ。元、明、清の三代には帝室しか通航できず、しかも由緒ある文物が沿道にたくさんあるからだ。この700年の間、皇帝や后妃たちは竜船に乗って長河を西にさかのぼった。庶民は清明の季節、この岸辺で柳の緑を楽しんだ。歩いてくる人がいて、かごや馬で来る人がいた。そうした情景も、いまに再現するのではなかろうか。中秋の夜は、船から月見をとしゃれ込む人が後をたたなく、不動産業者も、新規分譲の豪華団地を「水も見えます」と宣伝した。

こうした通航水路は、今後も積極的に増やしてゆく方針で、あと数十年のうちに三つの環状水路を完成させる計画。通勤通学は船でという優雅な人も、そのころには出現しているだろう。「これは、単に水利事業であるだけでなく、一大環境プロジェクトでもあるんです」と北京市水系総合整備事業指揮部の劉立成さんは語るのだ。

1999年7月1日、「中華第一街」と呼ばれる長安街の東端。半年以上も塀で囲まれていた建国門の西北角地が、ついにその覆いを撤去することになった。そこに出現したのは、1万平方bの緑地帯だった。その2ヵ月後、長安街西端の西単商業街の一角に、15000平方bの広場が完成した。草花を植えたスロープ、緑の芝生、クリスタルの金字塔……雑踏の代名詞のようだった西単の鮮やかな変身に、市民は壮大なマジックを見た思いだった。そしてこんな緑地が、北京のあちこちに次々と出現した。古い胡同までも、緑に彩られた。水不足のため緑化がおくれていた北京が、一つの大きな花園に変貌した。

変化をもたらした要因の一つは、行政だった。昨年の北京政府は、建国50周年と澳門(マカオ)復帰の年に当たって、1999年を首都緑化の年と宣言し、「青山く、水清く、地は緑に、空は澄みわたる」優美な環境と景観の造成を目標にかかげた。こうして大規模な緑化プロジェクトが各方面で展開された。「家屋を整理して緑地を造り、古い囲いを払って庭木を見せ、垣根をつる草でおおい、少しの空き地にも草花を植えよう」というスローガンが、精力的に実行された。北京市の総合計画によれば、2010年までに全市の50%で樹木を繁らせ、市街区の40%を緑地化し、市民一人当たりの公共緑地を10平方bとする。1999年1月から9月までの間に市街区周辺部で4平方`の緑地帯を造成したが、さらに5.25平方`の緑地を市全域にわたって造成する、という。

日本に行ってきた人はみな、その清潔な環境と秩序のある社会に強い印象を受けたと言うのだが、そのような状況がいま北京にも現れつつある。緑地は文化なり、とする考え方が明らかに芽生えつつある。もちろん、川や池にごみを捨てる者、ところ構わずタンを吐く者、花を折る者もまだいるが、そうした行為を否定する人が多数を占めつつあるのも事実だ。美しいものを見て美しいと感じ、美しいものを守り育てようとする人がいよいよ多くなっていくのも明らかな事実なのだ。

『人民中国』より

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