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中国の金持ちと貧乏人

 新世紀の6日目に、北京に瑞雪が降った。雲南のある友人はインターネットを通じて、私に北京は寒いかと聞いた。私はこう答えた。高級乗用車に乗って雪景色を観賞する人、雪の降る夜室内プールで泳ぐ人に言わせれば、寒くはない。私のように家でインターネットに接続できる人に言われても、あまり寒くはない。しかし、露店で野菜を売ったり、道端で新聞を売ったりする人に言わせれば寒い。実際には、北京だけでなく、全国ないし全世界の金持ちと貧乏人の天気に対する感受もこれと同じではないのだろうか。

 初めて北京を訪れた多くの人、特に首都空港で北京を知った人は、広くて大きいロビー、国際化の施設、更には空港外のまっすぐに伸びた大通りを見て、北京が金持ちが暮らしているところにいっそう似ていると感じる。外国人がこの発展途上国に対しいろいろな考え方をもつのはごく正常なことである。なぜなら彼らが目にしたのは中国の比較的よい一部分だけだからである。もし彼らが金持ちと貧乏人の家を訪れる機会に恵まれるならば、中国に対する評価はいっそう客観的、全面的、正確になるだろう。

改革は金持ちを育成

 中国の改革の父であるケ小平氏は1978年に「一部の人が先に豊かになるのを許す」ことを打ち出した。農村では農家生産量リンク請負制を実行してから、勤勉に働いて豊かになった人は「万元戸」(一万元の金をもつ農家)と呼ばれ、真先に金持ちがいることを庶民に知らせた。続いて、都市部で百万元戸が現れ、いまでは億元戸、数十億元戸さえいる。中国の高所得階層は偉人の一席の話でつくられたと言える。

 昨年12月に行われた中国民営交易会では、80億元の資産を擁する希望グループの劉永好総裁、28億元の資産を擁する黒龍江東方グループの張宏偉総裁、浙江正泰グループの南存輝総裁は、メディアの取材の対象となった。彼らはアメリカの「フォーブス」誌の選んだ最も金持ちの中国人である。彼らは創業の経歴と中国のWTO加盟で直面する挑戦に触れて、滔々と所感を述べたが、金持ちの問題を討論したい人は一人もなかった。これはまさに金持ちであることをひけらかさないという中国の伝統の一種の表れである。

 これらの人たちは主な時間と精力を仕事に注ぎ込み、彼らは中国の金持ちの中の事業型群体である。彼らは理想があり、事業を成就させる決意と気力があるが、日常生活の面では、生活が質素で、家庭消費の基準は適度である。

 金持ちになった中国人の中に、事業で成功を収めた後、社会的地位を手に入れようとする人が一部いる。彼らは政策、情勢の変化に基づいて絶えず自己調整をして、終始不敗の地に立っている。

 もちろん、金があればぱっぱと使い、贅沢に熱中する金持ちも少なからずいる。これは中国の「特産」ではなく、各国にもある。

 国家統計局の調査データによると、20世紀90年代の中国の金融資産額最高の20%の住民が擁する資産の量は金融資産総額の48%を占めたが、最低の20%の住民のこの割合は4%しかなかった。

 高所得階層の主な構成

 私営企業家

 中国大陸部の高所得の人たちの中で、まず私営企業家を推すべきである。2000年の中国大陸部で上位50位にランクされた金持ちの中で、私営企業家が一部分ある。前のところで触れた劉永好さんの4人兄弟は2位にランクされ、80億元の財産を持っている。黒龍江東方グループの張宏偉さんは7位にランクされ、資産は28億元である。南存輝さんの個人資産は6億元近くで、36位にランクされている。

 流通公司、不動産開発公司などの職員

 三資企業(合資・合作・全額外資企業)の中国側の高級職員、つまり「ホワイトカラー」族である。年平均所得は6600ドルを上回り、高い場合は数万ドルに達する人もいる。

 個人経営商工業者 年平均所得は国有企業従業員の年平均賃金の3.5倍で、少数の人の年間所得は数十万元に達する。

 企業経営請負者

 株式・証券経営者 「株式売買」、「所有権売買」、「不動産売買」を利用してにわかに成金になった。年平均所得は数十万元に達するものがおり、一部の株式投機をする富豪の所得は数百万元に達する。

 特殊な専門技術を身につけた人 例えば弁護士、会計士、スポーツ選手、俳優、有名歌手、ファッションモデルなど。

 経済学者、大学教授からなる講演陣の所得も驚くほど高い。有名歌手が高所得階層になったのに次いで、口を動かすことで収入を得る人たちも内職をやり始め、その報酬は日に日に高くなり、最高がなんと10000元にも達して、有名歌手、有名舞踊家、球技の名選手と肩を並べるようになった。

 金儲けのチャンス

 20年来、中国に「先に豊かになった人」がいったいどれだけいるか。それについては、まだ正確な統計がない。これらの人たちは千差万別であるが、金持ちになるチャンスを捉えるのがうまいという点だけが共通している。20世紀70年代以来、中国に次のような金持ちになるチャンスがあった。

 請負制 改革は農村から始まったものである。農地を請け負った農民が真先に豊かになった。彼らの中の一部の人は農地から得た富を都市建設に投入し、雪だるま式に資金を蓄積してますます大きくなった。まだ一部の人は郷鎮企業を興した。一部の民営企業家はとりもなおさず郷鎮企業から発展してきたものである。

 二重価格制と利率の差額 物価がちくじ自由化して、大きな財産のじょうごを形成した。少数の頭のよい商人はそれが気に入った。1987年と1988年だけでも、差額の総額は約一兆元にも達した。そのうちの1%だけが個人所有になったとしても、小さからぬ額である。まして、二重価格制がその2年に存在しただけではない。

 インフレが銀行の公定歩合より著しく高い年度では、もっぱら銀行から得た利子と貸付け者の支払う利子の差額をかせぐ人がいる。この利率差は15%に達した。つまり、規定からはずれて循環する貸し付けの利率差は一年で2000億元前後に達するわけだ。利率の差額をかせぐものは少なくとも金融機関と密接な関係があるものかその成員である。

 不動産 改革の初期に、不動産の価格は統一的基準がなかった。一部の人はわりに少ない代価で、または各種のネコを通じて、わりに安い価格で土地貸出し認可権を入手した。いったん時機が熟すれば、より高い価格で他人に又貸しして、その中から高額の利潤を獲得した。

 株式売買で金持ちになる 株式が発行されたばかりの時、需給はきわめてアンバランスであった。一部の人はいろいろな手段を利用して、無償であるいは安い価格で原始株を大量入手し、またたく間ににわかに成金になった。

 ハイテク 1995年以降、金持ちになる方向が大きく変わった。IT業とその他のハイテク産業の急速な発展に伴い、学歴の高い技術エリートが金持ちになった。1994年の統計によると、その年の中国に30人いた億万長者のうち、小学校の学歴しかない人が70%もあった。だが、1999年の中国商業界の10大人物のうち、最低の学歴が高専であった。張朝陽氏を代表とするネットワークのエリートは、堂々と金持ちに仲間入りした。

 高所得階層はかつて中国で20余年も中断したが、そのあと20年の発育と発展を通じて、金持ちが再び現れた。

 貧乏人はどこにもいる

 黒竜江省撫遠県は国家クラスの貧困県である。中国大陸部にこのような貧困県はかつて592県もあった。

 貴州省について語る時、「貧しい」と「立ち遅れている」は依然としてよく口から出る言葉である。一部の人は土地に頼って衣食問題を解決するのが難しく、ある人は採石場で苦役に従事し、ある人は上海など遠い沿海地区の工場と建築工事現場に出稼ぎに行っている。

 農村女性の多くは、大都市の家政婦市場に集まっている。

 安徽省阜陽県の張立敏さんは35歳の年に、初めて農村から都市に行き、人や車がひっきりなしに行ったり来たりする賑やかな通りを見て、新鮮感を覚えたが、残してきた子供や家のことをどうしても気にならざるを得ない。彼女は、しゅうとの病気を治すため、8000元の金を借りなければ、家を離れて知人もいない都市に来ることがないだろうと言った。彼女は北京で一人の80近い老人の日常生活の面倒を見、毎月300元の給料をもらっているが、とても満足している。

 甘粛省の盧木草さんは北京の小さな老人ホームで働き、3人の年寄りの面倒を見、毎日これらの年寄りにご飯を食べさせたり、水を飲ませたりして、懸命に働いている。彼女は食糧を非常に大切にし、ご飯一粒も浪費しない。そのため、食糧を大切にしない都会の人のやり方を気にくわない。あの人たちは空腹になったことがない、もし彼らを私たちの村に行って一年間暮らさせたら、間違いなく偏食しなくなるだろうと彼女は言った。

 天津市遼北路に住む劉さんは今年42歳、3年前に工場が不景気のためレイオフされた。家には80歳を越えた母と15歳の息子がおり、奥さんは国有の食糧販売店で働いていたが、10年前にこの販売店は閉店してしまった。この3年間、一家の生活は、劉さんが三輪車に乗って荷物を運んで得た収入によって支えられている。そのため、他人が食べ残したものを食べ、他人が残した弁当を家へ持ち帰る時もあった。生きていくためにはものを食べなければならないと彼は言った。

 遼寧省のある交通管理所の所長の月給は1000元足らずである。彼の妻は2年前に健康が優れないために失業し、家庭生活は苦しくなった。家庭を支えるため、彼は昼間は交通を指揮し、夜はひげを顔に付け、顔をほとんど隠せる帽子をかぶり、人力車で人を運んだ。毎日深夜まで働き、それで得た収入で家計を補っている。

 多くの発展途上国と同じように、中国の絶対的貧困人口は主に広大な農村、とくに山間地区、辺ぴな地域、農業生産の条件が相対的に立ち後れている地域に分布している。

 都市部の貧困人口のうち、どの国にもある社会の弱者のほか、欠損した国有企業と集団企業から失業した人たちがいる。これは中国の現段階の特有なものである。

1994年4月、金持ちになった10人の企業家が率先して「老、少、辺、窮地域(革命根拠地、少数民族地区、国境地帯、貧困地区)」へ投資することを提唱した。彼らの模範的行動の影響を受けて、金持ちは貧乏人を助け始めた。

 翦英海氏は華普グループの董事長。1993年と1995年、華普グループは400万元を投じて陝西省で2本の油井を掘り、また油井所在地の県政府に20万元を寄付した。そのほか、20万元を投じて北京市延慶県小川郷の羊養殖を援助し、同地の30世帯の農家を貧困から脱却させた。教育事業の発展にも関心を持っている翦氏は1994年に「希望プロジェクト」を通じて、四川省と安徽省の貧しいため退学した60余人の子供を再び学校に通わせ、また100万元を出して「華普愛心援助基金」を設立し、都市部の貧困家庭の生徒に学業を継続させた。

 博華通信ケーブル有限公司総経理の侯永生氏は1996年、三峡ダム区に6000万元を投じて、フ陵長江博華ケーブル有限公司を創立した。同公司が1997年に正式な運営に入ってから、氏はダム区の64人の移住民を就職させた。ここ2年間、侯氏はまたしても北京市懐柔県の貧困村の学校運営に10万余元を寄付した。

 中国光彩事業促進会は民営企業家を主体とし、香港、澳門、台湾及び華僑の商工業界関係者が参加する非政府組織であり、先に豊かになったものがまだ豊かになっていないものを援助し、中部と西部の未発達地区とともに発展をはかることをその主旨としている。同促進会にはこのような金持ちが大勢集まっている。

 1996年4月、江沢民総書記は光彩事業のために「中華民族の伝統的な美徳を発揚し、ともに豊かになるように促そう」という題辞を書いた。

 統計によると、1994年から1999年までに、北京だけでも光彩事業プロジェクトが206件も実施され、そのために投入した資金総額は3億2000万元、就職させた者は1万9178人、教育などの公共事業への寄付金は2億5000万元に達した。

 そのため、他人の援助と自分の努力に頼って、貧困から脱却した人が増えていることは喜ばしいことである。

 北京市民の余さん(女性、43歳)は、3年前に国有企業からレイオフされて一時帰休者となった。そのため、一家の収入は毎月800元以上も減って、老人と子供をかかえている家庭生活は苦しくなった。2カ月も迷い、悩んだあげく、彼女は毅然として居然インテリア市場に入り、床板販売の仕事を始めた。10年近く床板販売をしてきた社長は金持ちとなったが、全然経験のない余さんを助けて、わずか数カ月で市場で一番すばらしいセールスマンに育て上げた。一年余りの後、余さんはこの公司の株主の一人となり、月収も一万元近くに増えた。

 山東省イ坊市の李さんは腕扱の仕上工であったが、まだ定年退職の年齢になっていないのに、工場の不景気で一時帰休者となった。家に引きこもってからは仕事に熱が出なくなり、意気消沈して妻と別れたばかりでなく、大学在学中の息子に生活費を出してやることさえできなくなった。隣り近所の人たちは李さんのことを知ってから、金を出してガス器具修理の店を開かせた。この好意ある援助を受けた李さんは現在、不自由なく暮らしているばかりでなく、再婚している。

 今日の中国では、金持ちが進んで貧しい家庭を援助することがすでに一種の気風となっている。

 「北京週報」2001.No.08より

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