前書
中国における立法は特定の主体が一定の職権と手続きに基づき、一定の技術を運用して、制定、認可、改正する法律をめぐっての特定の社会規範活動のことを指す。中国の現行の立法システムは中央が統一的に指導し、ある程度の分権があり、各クラスの立法が共存し、さまざまな種類の立法が結合する立法権限の区分システムである。 中国の立法には全国人民代表大会と常務委員会による立法、国務院と関連部門による立法、一般地方の立法、民族自治地方の立法、経済特区の立法および特別行政区の立法などが含まれる。

現代における中国の立法の発展

現代における中国の立法は50年の歳月を経てきた。この50年来、中国は数千年の旧い立法システムから新しい立法システムへと移り変わる時期であった。

この50年を振り返ると、中国の立法にはいくつか変化があり、肯定から否定に、また肯定するという発展の道を歩んできた。この間に法律の確立と廃止が繰り返えされ、変化は大きかった。ここ20年来ようやく立法の安定的発展の新しい時期を迎えることになった。立法は安定的かつ迅速に発展すると同時に、さまざまな立法において改革と充実が待たれるモチベーションと必要性が含まれることになった。

50年前に、中華人民共和国の成立をきっかけに、中国の歴史で人民の利益に帰着とする新しい立法が初めて現われた。この新しい立法は民主革命において残された課題の完成、新しい政権の強化、新しい社会の建設、人びとの権益の保障などの面で、とくに経済体制の改革、経済と社会の発展を促す面で大きな成果を収めた。

しかし、この50年間に、中国の立法は困難に満ちた発展の道を辿ることになった。長い期間にわたって成功とはいえない道を歩むことになった。建国初期に、立法は非常に活発であったが、特殊な歴史段階の影響のため、当時としては先進的な1954年憲法が生れたが、これはその後の立法に積極的な影響を与えることは少なかった。1956年以降、中国の立法は安定的に発展する機会があるはずであったが、この機会を逸してしまっただけでなく、この時期から立法は活気がなくなり、様変わりし、停滞ひいては廃棄される宿命にさらされることになった。このような状態は22年も続いた。1979年に中国の立法はよみがえり、めざましく発展する時代の幕が開かれた。それ以後、中国の立法は絶えず健全化されると同時に、法制システムの中でもっともよい発展の環となり、今は法治国家を建設する重要な前提と基礎となっている。

50年来の中国の立法を振り返ってみると、蓄積されたもっとも重要な、もっとも価値のある経験は多くの有益なものを提供してくれただけでなく、中国の国情のもとで立法の発展を求める過程でぶつかる多くの大きな問題がさらけ出されたことである。この50年らいの立法は中華人民共和国の立法史上ひいては法治発達史上において貴重な価値を持つものである。

新中国の立法の過程は共和国の誕生と一致したものである。1949年9月、共和国成立直前に開催された中国人民政治協商会議第一回全体会議は現代の中国立法史上において重要な地位を占めるものである。会議は新しい政権が存在する法律的よりどころである『中央人民政府組織法』および暫定憲法の役割を果たす『共同綱領』を可決した。『共同綱領』は人民を抑圧するすべての法律、法令を廃止し、人民を保護する法律、法令を制定することを公布した。立法の角度から見れば、会議のすばらしい成果は立法という形で、同時に新中国の成立と新立法の誕生を宣告したことである。

この時期には、共和国の立法史上で、二つの大きな出来事があった。一つは第一期全国人民代表大会第一回会議が盛大裏に開催されたこと。もう一つは中国の立憲史上最初の社会主義の憲法が誕生したこと。1954年に開催した第一期全国人民代表大会第一回会議で、『憲法』、『全国人民代表大会組織法』、『国務院組織法』、『地方組織法』、『法院組織法』、『検察院組織法』など一連の重要な憲法としての性格をもつ法律が可決された。

この時期に、中国の立法システムは中央と地方におけるかなりの分権から高度の中央集権への発展という変化の過程を経てきた。地方の立法に対して、興廃と起伏の過程を経てきた。第一期全国人民代表大会第一回会議の開催の前に、中央と地方の分権システムを実施した。中央では、政治協商全体会議が全国人民代表大会の職権を代行行使し、中央人民政府組織法を制定することになったが、実際には、1949年の第一期政治協商会議第一回全体会議が立法した以外に、中央人民政府は法律上、事実上法律を制定し、法令を公布する権限を享有し、政務院が制定、公布した規範的文書は事実上法律として使用され、多くの地方的法令条例あるいは法規を批准した。地方では、大行政区、省、市、県の政府は法令あるいは法規を制定することができた。末端の民族自治郷以上の各クラスの民族自治機構は単独の法規を制定する権限があった。

1954年の全人代の開催後、中国の立法は高度中央集権制へと変わり、全人代は国の立法権を行使する唯一の機構となり、憲法を改正し、法律を制定する権限をもつことになった。全人代には法律を解釈し、法令を制定する権限がある。国家主席は法律や法令を公布し、国務院が制定した行政措置、公布した決議、命令は国の法規として、『中華人民共和国法規匯編』に収録された。地方では、民族自治地方のみが自治条例、単独条例を制定する権限があった。一般の地方は法令や単独の法規を制定する権限を持っていない。

この時期における法的システムの整備は著しいものであった。すべての業種が復興されるに至ったこの時期は、主要な力を立法に置くことが難しく、全国統一の法律、法令、法規を制定する経験も少なかったが、当時の立法作業はやはり大幅に展開された。新中国の初めの30年の立法において唯一の立法の盛んな時期が現れた。立法によって調整された社会関係は非常に幅広く、憲法、行政法、刑法、刑事訴訟法、婚姻家庭法、経済法、労働法、社会福利法、科学教育文化法、軍事法、民族法などの部門法を含む法的システムが徐々に形成されるに至った。そのうち、憲法、婚姻家庭法、軍事法などの部門法はすでに基本的な法律となっていた。憲法部門は憲法と一定量の憲法的法律あるいは憲法的文書を含む規模のある部門法あるいは法律の集まりとなっていた。

しかし、この時期の法的システムには依然として欠陥が数多く存在していた。法によって調整されるべき多くの事項は調整されず、中国は農業大国として当時農業法を制定しておらず、公民の権益と密接な関係を持つ民法は法的システムにまだ存在しておらず、刑法と民法は起草段階にあった。すでに制定された部門法の中には、基本的法律を核心あるいは基礎とする法律がなかったため、制定した法律、法令、法規は一時的性格、試行的性格、過渡的性格の強いものであった。その中の多く法律はすぐ適用されなくなったが、随時に改正、補完あるいは廃棄することができなかった。また経験の不足や歴史的条件の制約などの原因で、この時期の法的システムは社会発展とのバランス、法律内部の協調、既往の経験と国外経験を参考する面で、特に科学化、現代化を実現する面で、大きな欠陥が存在していた。

立法制度の面で、この時期には立法権が分散しすぎ、その後集権しすぎる問題があり、中央と地方のそれぞれの立法権限の範囲および中央の各立法主体の間の立法権限が明確になっておらず、職務怠慢と越権の問題が存在し、立法主体の整備が不健全で、立法の手続きのいくつかの主要な環は法的な形で明確かつ具体的に規定されていなかった。多くの立法作業は法定の手続きに従うことができなかった。立法前の準備作業、立法後の健全な仕事、例えば法の改正、廃棄、解釈などにはなおさら法的よりどころがなかった。党と立法、政府と立法、司法と立法、指導者個人と立法などの関係を適切に処理する上で法的な形で確定することができなかった。他の法的な形で確定されるべきさまざまな制度が法制化されたものも少なかった。立法化、立法の手続き、立法の基準法などの法律は存在しなかったし、人びとにも重視されなかった。

立法の技術についてはさらに遅れていた。多くの立法従事者に対して、聞いたことのない概念であった。立法の方略や質を問わず、立法のやり方、政治面で取り組み方、行政面での取り組み方とを区別せず、法的内部構成は科学的なものでなく、不健全で、名称、形式が多すぎ、混乱しすぎており、法的規範が不完備で、法違反に対する対策が欠け、権力をもつとどうするべきか、なにをするべきか、なにをしてはならないかを規定することしか知らず、法違反の場合どのような責任を取るべきかは注意しなかった。法的整理、集約、編纂が立ち遅れていた。立法の企画について随時に注意することができず、立法は軽重を問わず、立法の予測、立法の協調、立法情報のフィードバック、立法中の科学技術手段の応用など語れたものではなかった。これらの問題は消極的にこれまでの立法に影響を及ぼすことになった。

1957年から70年代末までは現代中国における立法の第二段階であった。この段階は中国の立法が大きな挫折をこうむった段階であった。1957年の反右派闘争の拡大化から1976年の文化大革命が終結するまでの20年間に中国社会は不安定に陥い、よく発展していくべきであった新中国の立法は他の多くの事業と同じように、重大な損害をこうむった。中国共産党第八回全国大会は国が需要に応じて系統的に法律を充実させる決定をおこなったが、民主の建設および立法を含む法整備を社会主義建設の戦略的目標と根本的任務の一部として見ることはなかった。歴史的諸要因によって、社会主義の改造が基本的に完成したあと、社会主義の社会発展の過程に現われた政治、経済、文化などの新しい矛盾を処理するとき、政権党は階級闘争の問題に属さない問題を階級闘争として見て取り、過去の大衆的な闘争のやり方や経験を引き続き使用し、階級闘争の拡大化など深刻な結果を招き、「左寄り」の都市部・農村部の経済政策と階級闘争政策が形成された。同時に、党と国家の政治生活の中の手段指導の原則と民主集中制が絶えず弱まり、ぶちこわれた。党内の民主と国の政治・社会生活の民主は制度化、法律化されず、あるいは法律は制定したが、その権威はなかった。党の権力が個人に集中し過ぎた。この状況の下で、歴史の発展の中で政治的悲劇や経済的誤りがよく発生したことはおかしいものではなかった。階級闘争は国と社会の発展のもっとも重要な基準と見られ、権力が集中し過ぎ、効果的に制約することができず、マイナスの影響をもたらすことも防げなかった。立法ひいては法制は正常な軌道に載せることができず、長期間進歩することができなかった。現代的国家のもつべき法治の特徴は古い、立ち遅れた人治思想と行為の中に埋没してしまった。

この段階においては、全人代しか国家立法権を享有していなかった。しかし1975年の憲法を可決した以外に、法律は一つも制定していなかった。法令制定権と単独の制定権を享有する全人代常務委員会が可決した条例や法規も少なかった。民族自治地方以外の地方では、立法権がなかった。中央と地方の立法活動は停滞、廃棄の状態にあった。この時期に、国務院とそれに属する部・委員会は依然として、規範的な文書を公布したが、憲法や法律には国務院および傘下の部・委員会が立法権を享有することを規定していなかった。公布した規範的な文書は事実上法として見られたが法律上、理論上では法的範囲に属さなかった。これらの規範的な文書の公布は立法とは見られなかった。

この時期に、全人代の活動は非常に不正常なもので、とくに1965年2月から1974年12月までの10年間には、全人代は一回も会議を開催しなかった。1959年以後、全人代常務委員会のスタッフは100人しかいなかった。

立法理論、制度、技術の全般的状況からみれば、それ以前の時期に比べて前進が見られなかったばかりか、大幅に後退することになった。

 
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