饅頭はわが国粉食類の一大類である。饅頭は大きく二種類に分類され、一つは餡無しの白饅頭、もう一つは餡入り饅頭で包子(パオズ)とも称される饅頭である。白饅頭は大小の区別以外には種類は無いが、包子には肉包、菜包、小豆包、湯包など餡によって区別された種類が非常に多い。饅頭に共通する特性は、発酵させた小麦粉を主要原料とし、蒸篭で蒸上げて作る点にある。饅頭の作り方は簡単であり、柔らかくて食べやすく、携帯にも便利で、必要に応じて風味の異なる饅頭を作ることができる。
饅頭の起源は今から1700年前にまで遡ることができ、その創作者は諸葛亮だと人口に膾炙されている。
諸葛亮は中国古代の有名な政治家、外交家で知恵の象徴になっている。彼は一生を漢室復活に捧げ、死ぬまで刻苦奮闘して真摯に忠勤に励んだ人物である。諸葛亮は単に戦場の英雄として神のごとき采配を振るったばかりではなく、赤心をもって人民をわが子のように愛した人物であった。彼が饅頭を創作した故事も民を愛する典型的な事例と言える。
蜀漢建興三年(225年)の秋、諸葛亮は心理攻略作戦を採り、孟獲を七度捕らえ七度許して服従させ、西南少数民族との友好関係を確立した後、朝廷に旗幟を還した。しかし、大軍が瀘水に差し掛かるとにわかに暗雲が垂れ込み、狂風波浪が荒れ狂って渡河することが不可能になった。諸葛亮は天候の変化に通暁していたが、この突然の変化には彼も困惑した。彼は慌ててこの地の地理天候を熟知している孟獲を呼んだ。孟獲は“この地は何年にもわたって戦乱が続き、数多くの戦士が屍を曝した場所です。こうした異郷の地に果てた人々の霊魂が出てきて、よく悪さをするのです。ここを渡河する為には、是非とも鎮魂の祭事を行わなければなりません”と言った。諸葛亮はこれらの戦士のことに思いを巡らし、国のために異郷に散り、戦争が終息しても永遠に異郷にさまよう孤独な魂魄のために鎮魂の祭事を行うのは当然のことである、と思い至った。彼は孟獲に祭事に必要な供奉品について尋ねると、孟獲は“七七四十九の首を供えて祭れば平安無事となり、来年は豊作となるでしょう”と答えた。諸葛亮はこれを聞き、この祟りはやはり無辜の魂魄であることは分ったが、これを鎮める為に49人の首を供えれば、また49の無辜の魂魄が彷徨うことになるのではないか?無辜の魂魄が更に増え続ければ、瀘水に安寧の日は永久に来ない、と気が重くなった。それに、人の首を供奉すること自体が、あまりにも大きな代価である。
諸葛亮は瀘水の祭事に人の首を供奉しない決心をした。彼は苦慮した挙句、遂に首に代替するものを考え付いた。彼は士卒に命じて牛と羊を屠らせ、叩いてミンチ状にして餡を作り、小麦粉の皮で包んで首の形に似せ、蒸篭に入れて蒸しあげたのである。この祭事用供奉品は“饅首”と称された。諸葛亮は肉と小麦粉で作られた饅首を瀘水の岸に運び、自ら供奉台に置き祈祷して祭事を執り行った後、一つ一つ瀘水に投げ入れた。祭祀を受けた後の瀘水は、風がおさまり波も静まって、大軍は無事に渡河することができた。この後、人々はいつも饅首を供奉品として祭祀を行うようになった。首と頭は同義であるため、時間がたつにつれ饅首は饅頭といい慣わされるようになって行った。饅頭は祭祀用に供奉された後、食用に供されるようになり、これにヒントを得て、食品として確立されていったのである。今では中国全土に止まらず、世界各地にまで広まっているが、饅頭にこめられた諸葛亮の愛民精神を知る人はあまり多くないかもしれない。
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