三大戦役
1948年秋、人民解放戦争は全国的な勝利を獲得する戦略的決戦段階に入った。毛沢東を核心とする中国共産党中央は戦争の情勢を科学的に分析し、戦略的決戦の時機を正しく把握し、決戦の方向性を決め、異なる戦場の特徴に合わせて作戦方針を定め、遼瀋・淮海・平津の三大戦役を続けざまに起こし、各戦役の各段階の間を密接に結び付け、人民解放戦争を勝利から勝利へと推し進めた。
1948年9月、林彪と羅栄桓が指揮する東北野戦軍の主力と地方武装勢力の計103万人は東北地方の人々の支援の下、錦州、長春、瀋陽などに分割されていた国民党軍55万人に向けて遼瀋戦役を開始した。この戦役は52日をかけて人民解放軍の勝利に終わり、東北全土を解放し、東北野戦軍は強大な戦略的予備部隊になり、北平、天津と全華北の解放のために有利な条件が整った。また、強固で一定の工業的基盤を備えた戦略的後方を人民解放軍にもたらした。
1948年11月、遼瀋戦役の終結後、鄧小平を書記とする総前敵委員会は華東野戦軍、中原野戦軍、および一部の地方武装勢力の60万人余りを統一的に指揮し、徐州を中心とし、東は海州から西は商丘まで、北は臨城(現在の薛城)から南は淮河までの広大な地域で、大規模な淮海戦役を開始した。この戦役は66日をかけて人民解放軍の勝利に終わり、解放軍が長江を渡って戦い、さらに国民党反動支配の中心地帯である南京や上海を解放するのに極めて有利な条件を整えた。
1948年11月末、人民解放軍は林彪、羅栄桓、聶栄臻から成る平津総前敵委員会の指導の下、西は張家口から東は塘沽、唐山までの、北平や天津を含めた地域で平津戦役を開始した。1949年1月31日、北平は平和的に解放された。この戦役は64日をかけて華北全土を基本的に解放した。
遼沈、淮海、平津の三大戦役は計154万人余りの敵をせん滅し、国民党の主な軍事勢力を基本的に粉砕し、解放戦争の全国的勝利を大幅に速めた。人民大衆は戦略的決戦の中で極めて大きな役割を果たし、最前線を支援した農民は886万人、使われた担架は36万台余り、大小の車両は100万台余りに達した。三大戦役をシンボルとする戦略的決戦の勝利は、毛沢東の軍事思想と人民戦争の偉大な勝利であり、中国人民解放戦争史上の輝かしい一里塚だ。
三大战役
1948年秋,人民解放战争进入夺取全国胜利的战略决战阶段。以毛泽东为核心的中共中央科学地分析战争形势,正确把握战略决战的时机,选定决战方向,并针对不同战场的特点制定作战方针,连续组织辽沈、淮海、平津三大战役,并使三大战役各个战役的各个阶段之间环环相扣,推动人民解放战争从胜利走向胜利。
1948年9月,林彪、罗荣桓指挥东北野战军主力和地方武装共103万人,在东北人民的支援下,向分割在锦州、长春、沈阳等地的55万国民党军发起辽沈战役。这次战役历时52天胜利结束,解放了东北全境,使东北野战军成为一支强大的战略后备队,为解放平津和全华北创造了有利条件,并为解放战争提供了一个巩固的、具有一定工业基础的战略后方。
1948年11月辽沈战役结束后,以邓小平为书记的总前委统一指挥华东野战军、中原野战军及部分地方武装约60余万人,以徐州为中心,在东起海州、西至商丘、北起临城(今薛城)、南达淮河的广阔地区,发起规模巨大的淮海战役。这次战役历时66天胜利结束,为解放军渡江作战,进而解放国民党反动统治的中心地带南京、上海创造了极为有利的条件。
1948年11月底,人民解放军在由林彪、罗荣桓、聂荣臻组成的平津前线总前委领导下,在西起张家口、东至塘沽、唐山,包括北平、天津在内的地区,发起平津战役。1949年1月31日,北平和平解放。这次战役历时64天,基本上解放了华北全境。
辽沈、淮海、平津三大战役,共歼敌154万余人,使国民党的主要军事力量基本上被摧毁,大大加快了解放战争在全国胜利的进程。人民群众在战略决战中发挥了巨大的作用,支援前线民工达886万人,出动担架36万余副,大小车100万余辆。以三大战役为标志的战略决战的胜利,是毛泽东军事思想和人民战争的伟大胜利,是中国人民解放战争史上一座光辉的里程碑。