ホーム>>中日両国>>視点
南京大虐殺70周年(2)体験者の証言
発信時間: 2007-12-14 | チャイナネット

生存者である穆喜福氏の証言:「私たち一家はずっとラーベイ氏に感謝しています。当時、彼が庇護してくれなかったなら、私たち一家53人はみんな活きて来られなかったでしょう!」

12月7日午前、私は南京市の南湖南苑新村に住む生存者、穆喜福氏を訪問。彼はドイツのジョン・ラーベイ氏の家で難を免れた。70年前に日本軍が南京を侵攻した際、広州路4号に住んでいた。広州路2、6、8、10号はいずれもラーベイ家とつながっており、この一帯は国際安全ゾーンであったため、一家はラーベイ家に身を隠した。穆氏はこう当時を振り返った。「当時、ラーベイ家の屋根には大きなドイツの国旗、恐らく普通の国旗より数十倍も大きな国旗が掲げられていて、屋根全体を覆っていました。空から見れば、とくに目に入ります。日本軍機は低空に急降下して爆撃していましたが、あの国旗があったので、何度来ても爆撃することはなく、そこは安全でしたし、そのうち日本軍は来ようとはしませんでした。12月13日です。みんながラーベイ家に駆け込んだ、その夜のことですが、街全体に銃声が轟き、助けを求める声、泣き叫ぶ声が聞こえ、みんな恐怖のなかで一夜を明かしました。翌日の朝、外は平穏でした。外に出てみると、唖然としました。道路でも、川でも、横になったり、立っていたりするのはみんな死体でした。そのあと、避難してくる人が増えて、600人余りになり、みんなラーベイ家の庭で押し合いへし合いでした。ラーベイ氏はすごく忙しかったのでしょう、ひげだらけの顔でした」

南京大虐殺の生存者穆喜福さん(右)と妻の李世珍さん(左)

第三者の史料:多くの加害者と被害者の証言のほか、この数年来、南京大虐殺の期間に中立の立場にあった西洋人による第三者の資料が多数発見されている。

南京大学歴史学部博士課程指導教官で、南京大虐殺研究所副所長の張生教授を取材した際、昨年、米国立公文書館で南京大虐殺に関する資料を収集していたときに、極めて価値のある最高機密文書を発見したことを話してくれた。日本の広田弘毅首相が1938年1月17日、東京から米国の日本大使館に発信した機密電報だ。米国はそれを解読していた。電文の内容は「数日前、上海に戻り、日本軍の南京とその他の一部地方での残虐行為に関する報道について調べた。信頼できる目撃者が直接数えた、また信頼度の極めて高い一部の人の書簡にもとづけば、それは十分に証明できるであろう。少なくとも30万の中国平民が殺戮に遭い、その多くは極めて残虐で血なまぐさい虐殺だった」というものだ。張生教授は「これまでに収集した資料のなかでは、最も早く南京の30万人市民の殺戮に言及しており、証拠となるものです」と指摘。さらに「米国や欧州などでも、第三者による史料の発見が相次いでいます。個人的な判断や細部の描写はやや異なるものの、南京大虐殺が一つの歴史事実であることは広く認められているのです」と強調した。

「北京週報日本語版」より2007年12月15日

     1  2  


  関連記事

· 南京大虐殺70周年(3)平和を願う日本人の感想

· 南京大虐殺70周年(1)記念館新館の完成

  同コラムの最新記事

· 南京大虐殺70周年(2)体験者の証言

· 南京大虐殺70周年(1)記念館新館の完成

· 負の遺産を乗り越えていくために

· 中日士官交流、7年間途切れなく続く

· 日本人の親孝行の今様 (読者の投稿)