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藤沢市、中国国歌を毎年演奏 天才音楽家を記念
発信時間: 2008-07-23 | チャイナネット


「万人が心を一つにして、敵の砲火を冒し、前進!・・・」。神奈川県藤沢市の鵠沼海岸近くの公園の広場では17日、中国の国歌『義勇軍行進曲』のメロディが流れた。藤沢市は毎年7月17日、中日友好の使者であり、『義勇軍行進曲』を作曲した聶耳を記念して、中国の国歌を演奏し、様々な記念行事を開催している。

 

日本で作曲された『義勇軍行進曲』

聶耳の本名は聶守信。1912年に生まれた。生まれつき音楽の才能に恵まれた彼は、音を聞き分ける耳が非常に鋭かった。それで「耳朶先生(耳さん)」というニックネームがつけられた。後に彼は、思い切って「聶耳」と改名してしまった。

18歳の時、聶耳は上海に来て、その後、中国新興音楽研究会を組織した。また、映画会社の「聯華」やレコード会社の「上海百代公司」で、進歩的左翼の映画や現代劇、舞台劇のために作曲した。主な作品には『波止場労働者の歌』『卒業の歌』『大路歌』など、30余りの歌曲がある。

1935年、田漢ら多くの左翼芸術家が相次いで国民党当局に逮捕された。田漢は後に『義勇軍行進曲』の歌詞を作った人である。

1937年10月、聶耳の遺骨は昆明に帰ってきて埋葬された。墓前で記念撮影した当時の親友たち  

その年の4月には、当局が聶耳を逮捕するつもりだという情報が伝わってきた。そこで共産党組織は、聶耳をまず日本に避難させ、機を見て、迂回して欧州かソ連へ行き、勉強するよう手配をした。

当時、上海の電通会社が映画『嵐の中の若者たち(風雲児女)』を撮っていた。田漢が獄中でこの映画のテーマソングの作詞をしたが、煙草の箱に歌詞を書いて、人に頼んで監獄から持ち出したと言われている。

日本へ行く準備をしていた聶耳はこのことを知り、自ら進んでその歌詞に作曲したいと言い、出発前に、分秒を争うようにして初稿を書きあげた。

聶耳は4月18日、東京に着いた。落ち着くやいなや、彼はすぐに楽譜を直し始めた。5月の初、決定稿が完成し、書留郵便で上海に送られた。これが後に、中国版の『ラ・マルセイエーズ』(フランス国歌)と呼ばれた『義勇軍行進曲』である。

『義勇軍行進曲』の作曲者の聶耳(左)と作詞者の田漢(右)  

この歌の奮い立つような旋律は、映画の上映とともに中国全土にくまなく伝わり、まさに侵略に抵抗し、反撃している中国人民を大いに鼓舞したのだった。

新中国成立後、この歌は、中華人民共和国の暫定国歌に選定された。1982年には正式に、国歌となったのである。

しかし聶耳は、日本に着いてから3カ月後の7月17日、藤沢市の鵠沼海岸に海水浴に行き、不幸にも水死したのだった。24歳の若さだった。

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