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国務院発展研究センター学者:倭人と倭人文化の謎
発信時間: 2008-10-30 | チャイナネット

国務院発展研究センター 張雲方

河姆渡遺跡の発掘現場

 

紀元前千余年前に、中国の史書に登場した「倭人」は、その後、歴史の闇の中に忽然と消えた。そして千年以上経った『後漢書』や『魏志』の「倭人伝」の中に、「倭人」は再び登場する。この「倭人」はどういう関係にあるのか。それは謎とされてきた。

私は、斉(注1)の文化を研究してきたが、斉の文化と倭の文化が意外にもよく似ていて、一脈通じることを発見した。そこで私なりの仮説を立ててみたが、これはまだ十分に成熟したものではない。

しかし、「レンガを投げて玉を引き寄せる」という喩えもある。これを一つのたたき台として、多くの専門家や学者が、さらに広い視野から深く、倭の文化や斉の文化を考察するきっかけになればよいと思い、敢えて私の仮説の一部を提起することにした。

古代の「倭人」はどこにいたか

後漢の王充が著した『論衡』(注2)の中に、周王朝(紀元前1046~紀元前256年)の初期について、こういう記載がある。

「周時天下泰平、越裳(注3)献白雉、倭人貢鬯艸(注4)」(周の時代は天下が泰平になり、越裳は白い雉を献じ、倭人は不老草を貢いだ)

これまでの学術研究では、この「倭人」は現在の日本人を指す、とされてきた。しかし、それは違うと思う。その理由は簡単なことだ。

周代の国力や技術、文化などの面を考えると、国外の勢力を威嚇したり、統轄したりすることはまだ不可能であった。まして海を隔てた日本からはるばる中国まで朝貢するのは不可能であったろう。周王朝の中心は、いまの甘粛、陝西の一帯にあり、当時、周に朝貢してきたのは、中国の影響下にある範囲の国々だけであった。

古代の「倭人」は、長江の上流域の雲南、貴州、四川一帯に住んでいたのではないかと思う。『史記』の中に記述されている滇、夜郎、且蘭、邛都、昆明、雋、徙、筰、冄、蜀、巴などの国は、いずれも「倭人」によって建てられたと私は見ている。

不幸なことに、多くの「倭人」の王は、秦の始皇帝や漢の武帝に討伐されてしまった。「倭人」の建てた国々も消滅した。しかし国家は滅亡しても、「倭人」の創りだした燦然たる文化は、消滅しなかった。「倭文化」は、「倭人」の国家が消滅する前に、すでに広く伝播し、国が滅んだ後も依然としてその影響力を失わなかったのである。

燦然と輝く「倭文化」

新石器時代の初期、「倭人」が主に暮らしていたのは雲南の滇池一帯であったろう。彼らは水稲栽培の創始者であり、黄河文明と比肩できる長江文明を生み、育てた人々である。彼らは黄河文明とは違い、「高床式」と呼ばれる竹製の住宅に住んでいた。主食は米であり、黄河文明の主食である粟ではなかった。

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