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日本から来た中国磁器
発信時間: 2009-01-21 | チャイナネット

清末民国初期のころ、日本の骨董商である好古堂の中村作次郎氏は北京、上海、蘇州、杭州などを巡り、骨董品が売買されている状況を理解した。北京の琉璃廠をぶらついた後、中村作次郎氏はこう言った。「おしなべて中国の古物店は、品数は多いが、日本に合った品は極めて少ない。中国は革命が多く起こる国なので、明代以前の陶器や宋、元代の逸品のような古い品はかえって日本のほうにあって、本国の中国にはとても少ない。今の北京の品は主に清朝のものだが、こうした状況のため、日本人の好む品を買いたいと日本からやって来ても、品物がまったくなく、ため息が出るばかりだ」。当時、茶道が流行していた日本の骨董商から見れば、これらの清代の品はけばけばしくて「ヨーロッパ向きの品」だったのだ。

 

壺中居の創業者である広田松繁氏の自伝や繭山龍泉堂2代目、繭山順吉氏の著書の中には期せずして同じような記述があり、清朝の官窯は初めから日本人には受けが悪かったことが記されている。日本のコレクターにとっては最高の境地にある収蔵品は宋磁であった。日本では明治維新後、事業を興して成功する企業家が大量に現れたが、彼らは中国の文物を好み、それらを数多く収蔵し、彼らが一生をかけて収蔵したものを国の博物館に寄贈したり、私設の博物館を開いて展示したりした。日本で最も著名な陶磁器のコレクターである安宅英一氏は磁州窯緑釉黒花牡丹紋瓶、耀州窯青磁雕花牡丹唐草紋瓶、定窯白磁蓮華文深鉢、建窯黒釉油斑茶碗、吉州窯黒釉木汁紋碗など、中国を代表する陶磁美術の粋を集め、大阪市立東洋陶磁美術館に寄贈し、いずれも日本の国宝や重要文化財に指定されている。住友吉左衛門が創立した「泉屋博古館」の名称は、住友一族が江戸時代に使っていた屋号「泉屋」と、宋の徽宗帝が指示して編纂させた青銅図録『博古図録』から採られている。

清代雍正年間の粉青釉観音瓶

龍泉堂の創始者である繭山松太郎氏は、ある宋代の青磁鬲式炉から、後に中国龍泉窯の青磁を主体にした日本で指折りの古美術商の地位を築くことになる。彼は日本で骨董店を開く際に、中国の龍泉窯の青磁をきっかけに身を立てたことを記念して自らの骨董店に「龍泉」の名をつけたのである。

 

Polyオークションでの競売を依頼したこの日本の老コレクターの収蔵品は、当時の日本のコレクションにおいては珍しいものだったと言える。しかし、時は移り状況が変わり、日本の老コレクターが一生をかけて収集した、自国の同業者からは顧みられなかった清代の磁器もついに、新しいコレクターたちの大量の出現で愁眉を開くこととなった。今回のオークションでは46点の品すべての取引が成立したが、買い手の7割は大陸部のコレクターで、残る3割は香港・台湾地区のコレクターであった。全体を通じて競売価格の最高値をつけた雍正粉彩過枝菊蝶九秋盤は、香港の郭炳湘氏が購入、蜻蛉碗(1対)は山西省の炭鉱経営者が取得したという。

「北京週報日本語版」より2009年1月19日

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