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地元市民との触合いから岡山時代の郭沫若を追懐 |
発信時間: 2009-08-26 | チャイナネット |
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漢文先生一家との付き合い 岡山時代の郭沫若にとって、留学して初めて地元の一般市民と親交をもったことも注目すべき事実だといえよう。 郭沫若の自叙伝小説『月蝕』のなかで、「二木」という近所の漢文先生の存在とその一家との付き合いが記されている。
1917年、私たちは日本の岡山市内の偏僻な路地に住んでいた。路地の奥には二木という隣家があって、それは中学校の漢文の先生であった。をとみが彼らと同国人のために、そこの一家は特別に親切にしてくれた。そこの家には宇多という16歳の娘さんがいて、両家は非常に仲がよかったから、そこの家の人は皆私とをとみの関係を聞きたがった。その時彼女は私と同居したばかりで、彼らに問い詰められて、兄妹だと言った。その話を本当だと信じた漢文先生の奥さんは、をとみを息子の嫁にして宇多を私にくれると、いつも人に言っていた。をとみが岡山に3月まで住んでから東京へ勉強に行った。宇多とその母親がそれでいつも私のためにご飯を炊いたり掃除に来たりした。 しかし、漢文先生一家の友情はをとみが妊娠して東京から帰ったことによって一変した。「私達を罪人扱いにして時に白眼を加えた」。「宇多」だけは「いつもの笑容掬すべき態度を改めなかった」。人間味の溢れた微笑ましい一幕である。 『月蝕』のなかでもうひとつエピソードがある。六高卒業を目前にした郭沫若は、卒業後の暑いうちに日本の東北の海岸へ家族旅行に行こうと計画し、をとみは長男を連れて一カ月先に出発した。六月のある日の夜、一人家で試験の準備をしていた郭は突然「宇多」に呼び出され、外に出たら目に入ったのは鉤のような赤い月、つまり月蝕だった。これは『月蝕』という作品名の由来の一つともなっているが、筆者の調査では、1918年6月24日の夜18時46分から20時10分までの間、岡山では確かに部分月蝕が見えていた。 『月蝕』は郭の他の自叙伝小説と同じようにフィクションの部分があり、登場人物の名前も本名とは限らない。しかし、当時留学生の郭沫若は地元岡山の一般人と家族ぐるみでのつきあいを一年半も続けたことは疑いようのない事実である。この作品の中では、九州大学での留学を終えた郭沫若は、帰国する前に一度、家族で漢文先生一家を訪ねようと考えたが、「福岡と岡山は遠く離れていてついに行くことができなかった」ことも記されている。
「人民中国インターネット版」より 2009年8月26日 |
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