アジア通信社特約記者 東京大学大学院教育学研究科修士号 陸一=文・写真
花の咲く音
かつて杭州の西湖を訪れたときのことだ。日本人の友人がまじめな顔で私に言った。「ハスの花が咲くときには、『ポン、ポン』という音がするのですよ。ご存知ですか?」。半信半疑な私の表情を見て、彼はさらに言い足した。「江戸時代の末期にハスを鑑賞する宴席で、ある文人が詠んだ名句があります。『花が開くときに仏法を伝える音がし、すばらしい香りが満ちあふれるのは、暁のころのハスの花である』のような意味を詠んだものです。これはハスの花は咲くときに音がすることを裏付けるものといえるでしょう」
仏の玉座のような神聖で無垢なハスの花(写真・Lara)
そのときハスの花はすでに満開だったため、確かめる機会はなかった。彼が杭州を去る前に、私は杭州のシルクの団扇を記念にとプレゼントした。その団扇には、「畢竟西湖六月中、風光不与四時同、接天蓮葉無窮碧、映日荷花別様紅(西湖の6月の風景は格別である。天に伸びる蓮の葉はどこまでも限りなく美しい青緑色であり、太陽に映える蓮の花は独特の赤い色をしている)」という文字が書かれている。我々中国人がハスの花に抱いている印象は、すべて唐詩宋詞の中に残されているものなのである。
そのとき以来、毎年ハスの花が満開の季節になると、私はなんとかしてハスの花の咲く音を聞きたくて、いつも気にかけている。しかし、遠くから見るだけで手の届かないハスの花は、常に早朝に開くため、その花がいまにもほころぶというその瞬間に立ち会うことは、なかなか難しい。文学研究に従事している例の日本人の友人によれば、ハスの花のような古い歴史をもつ植物は、中日両国の文化の融合、発展の過程の、千年越しの証人である。中国では、ハスの花を愛する心は古くから受け継がれてきたものであり、鑑賞する視点もまた自然に大衆に広がった。しかし現在の日本人の心の中において、ハスの花は仏教の浄土を象徴するものとなっている。中国の伝統文化の中に根を下ろしているハスの花のイメージは、もともと両国と緊密につながっているのに、いまではようやくめぐり逢えたにもかかわらず、互いに見知らぬ人であるかのように、そのことを知らずにいる。
中日のハスの花のイメージの融合
ルーツをさかのぼる。日本文化におけるハスの花のイメージの源を明らかにすることは、まるで鏡の中に映る漢文化に光を当てる過程のようである。日本の四大古書、『古事記』『万葉集』『源氏物語』『枕草子』の中には、いずれもハスの花の描写が見られる。日本最古の歴史書である『古事記』の中に興味深い伝説の記載がある。大長谷(オホハツセ、のち雄略天皇)王がかつて赤猪子(アカヰコ)という娘に求婚した。それきり、この娘は天皇の迎えを80年の間待っていたという。彼女は王に向かって次のような歌を詠んだ。
「日下江の 入江の蓮 花蓮 身の盛り人 羨しきろかも」
これは、「日下の入り江のあたりに美しく咲いていたハスの花を覚えていますか。ハスの花のように若く美しかった女を、私のことを、あなたはまだ覚えていますか」という思いを詠んだものである。このロマンチックなエピソードは、日本で最古のハスの花の記載であり、わが中国では3千年前の『詩経』の中でたたえられているハスの花に相当する。
7世紀末から8世紀後半には、日本最古の和歌集である『万葉集』が編まれた。天皇、貴族、下級官人から防人まで様々な身分の人々が詠んだ歌を集めたもので、そのスタイルは中国の『詩経』に非常に似ている。『万葉集』はすべて漢字で書かれたもので、当時の気風、志向などはいずれも中国の『玉台新詠』に学んだものである。『万葉集』の中には、ハスの花に言及しているところが4ヵ所ある。中でも以下の歌は代表的なのである。
ハスの花はたびたび中国画の題材となる(東方IC)
「還自彼池不忍怜愛。 於時語学婦人曰、 今日遊行、見勝間田池、水影濤ゝ、蓮花灼ゝ。可怜斷腸、不可得言(彼の池より還りて、怜愛に忍びず、時に婦人に語りて曰く、『今日遊行でて、勝間田池を見るに、水影濤濤、蓮花灼灼なり、すばらしきこと腸を断ち え言ふべからず』)」
親王がハスの花の盛りの勝間田の池を見て、ハスの花の美しさへの思いを、戻ってきてからある婦人に語ったものであるという。当時の日本文学はほぼ漢文学のみであり、字句の文法及び漢字が通じるのみならず、その審美基準も完全に中国文化に求めたものであった。当時の律令制度の知識人は漢字の「蓮」の読み方と「怜」「憐」「恋」が非常に似ていることを理解しており、文学におけるハスの花のイメージは直接「美女」「思婦」「情愛」に結びついた。同時に、工夫を凝らして規範的に「蓮」を使用することで(日本語で同じ発音の「荷」ではなく)、この漢字によってその特別な意味を表現したのである。
9世紀初めには平安時代が始まる。魏の文帝曹丕の句である「蓋文章経国之大業、不朽之盛事(文章は経国の大業にして不朽の盛事なり)」の影響を受け、天皇をはじめ、貴族たちは漢詩に夢中になり、『経国集』『凌雲集』『文華秀麗集』などの漢詩集が編まれた。このとき、ハスの葉が表現した境地は時代の気風の移り変わりによって変化していった。『凌雲集』に見られる、嵯峨天皇によるハスの花を詠んだ二首の漢詩がその典型である。
其の一 其の二
納涼儲于南池里 玄圃秋雲粛
盡洗煩襟碧水湾 池亭望爽天
岸影見知楊柳處 遠声驚旅鷹
潭香聞得芰荷間 寒引聴林蝉
…… 岸柳惟初口
潭荷葉欲穿 院里満茶煙
粛然幽興処
ここではハスの花は、もはやあでやかな生き生きとしたものではなくなっている。詩の題材は美しい人を恋い慕う思いから脱皮し、ハスの花にかこつけて成長と衰退をほのめかす趣向となっている。このような詩は中国人が見ても非常に親しみが持てるものであり、距離を感じない。その趣は唐詩とよく似ている。引用した2首は、「其の1」ではハスの花の池などの風物を描写することで、夏の池のほとりの避暑の涼しさ、のんびりした雅趣を思う存分に表現している。「其の2」で注目されているのは、夏の終わりの初秋のハスの名残である。「欲穿」の2文字の中に、枯れたハスの葉に秋が深まってゆく悲しさまで表現されている。この書き方は、当時の文芸作品におけるハスの花を愛でる視点を定めている。また、嵯峨天皇の弟、のち淳和天皇は続いて「池際凝荷残葉折、岸頭洗菊花早低」と詠んだ。姫大伴氏の「菊潭帯露余花冷、荷浦念霜旧盞残、寂寂独傷四運促、紛紛落葉不勝看」にはさらに、ハスの名残の「寂寥の美」が極致まで発揮されている。
浄土仏花―日本におけるハスの花のイメージの変化と固定
平安中期(10世紀)、仏教が中国を経由して日本に伝わった。中国の鳩摩羅什(344~413年)が翻訳した大乗仏教のもっとも重要な経典の一つ『妙法蓮華経(法華経)』は、もともとサンスクリットでSaddharma-pundarika-sutra、直訳すると、「白いハスのように純粋で穢れのない教義」という意味である。
大乗仏教は日本で盛んになり、とりわけ浄土宗の教義は上から下まで知識階層の文化意識に浸透した。ハスの花の日本におけるイメージも、これにともなって徹底的に変化した。ハスの花はもはや単純に目の前の情景から催す感慨をほのめかすのではなく、ハスの花は仏の玉座であり、「極楽浄土」の象徴という意義をもつようになった。このイメージはまず日本における民俗的な礼儀の中に広く表現されている。たとえば『源氏物語』の中には、ハスの花のイメージが19回登場する。そのうちの14回は宮廷貴族の葬儀、出家などの仏教儀式において直接言及されている。
その時代、日本人は中国人と同じようにハスの花の「泥の中でも染まらぬ」品格を愛でていたけれども、仏教の影響によって、異なる解釈もしている。中国の名作『愛蓮説』における「花の君子」という儒教的価値観に対し、日本人にとってハスの花は、俗世の罪業に染まらない仏花なのである。花の部分だけでなく、日本人はハスの葉の上の露を観察するもの好きで、ハスの葉は「染まらない」という手本を体現していると称賛する。『古今和歌集』によく知られるこんな歌がある。
「はちす葉の濁りに染まぬ心もて なにかは露を玉とあざむく」
これは、「泥水の濁りに染まらない清らかな心を抱いていれば、その葉の上の露の玉のような誘惑に負けない」という意味である。『枕草子』の「草篇」でも「蓮葉、よろづの草よりもすぐれてめでたし」と、ハスの葉に触れている。これは、ハスの葉は仏前に供えるものであり、ハスの実はつなげて数珠にするものであることから、一心に念仏を唱えれば極楽浄土にいけるとされるからである。このように、ハスの花は文化の符号になり、そのイメージは、日本人の心の中で完全に仏教の浄土と一体化している。それは今でも変わっていない。
ハスの花の審美を通じて、中日文化の融合のプロセスを振り返ると、もっとも早い時期に日本は我が国の文化の影響を深く受け、その文学作品に「互いに心が通じあう」ものが表現されている。ところが、平安朝以降、仏教が発展してゆくにつれ、ハスの花のイメージに対する審美および解釈において、日本は中国とは異なった道を歩んでゆく。中国では周敦頤の後世まで伝わる傑作『愛蓮説』において、「菊は、花の隠逸なり。牡丹は、花の富貴なり。ハスは、花の君子なり」と定義するが、日本の文化人はそのような考えはなさそうだ。それはちょうど、日本がそのころには当時の中国文化の潮流と足並みをそろえていなかったからかもしれないし、同じように中国から伝わった仏教が『愛蓮説』よりもさらに日本の社会の需要にあっていたからかもしれないし、そのほかの複雑な要素が文化を理解する上で、ある時期の障害になっていたのかもしれない。そのため、今日において、日本人の友人がハスの花を見たときに、我々中国人とはまったく異なる視点を持ち、浄土の仏音を連想するのも無理のないことである。「ハスの花が開くときに音がする」というのはもともと「心に雑念がなければ、心の声が聞こえる」という仏教的な意味が現れたものなのだろう。
古代ハスの再生
日本人の友人にシルクの団扇を贈ったとき、私は楊万里の名句のみが毛筆で書かれ、ハスの花が描かれていないものを選んだ。なぜなら、現代の日本人の生活において、ハスの花は「極楽浄土」のシンボルではあるが、それを用いるのは通常、仏教寺院と葬儀用品に限られるからである。ハスの花の描かれた贈り物をもらったら、日本人は戸惑ってしまうだろう。
ハスの名残(東方IC)
1951年3月、東京大学の千葉県検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)で、大賀一郎博士は3個の2千年前の古代ハスの実を発見した。ほぼ同じころ、中国科学院北京植物園の研究員が、遼寧省大連市の地元の農民が持っていた500個のハスの実を集めた。炭素14の測定によれば、これらのハスの実の寿命も千年に達するものであった。千年もの間眠っていたこれらのハスの実は、懸命な栽培努力を経て、いずれも奇跡的に蘇り、芽生え、葉を広げ、花を咲かせた。ハスの花の驚くべき生命力は、長い歴史を持ち、生き生きとして決して衰えることのない中華文明を思わせる。ハスの花というこの古く歴史ある文化記号の意味の変化は、漢文化の興隆、伝播の証明であり、異国の地に落ち、根を下ろし、さらに多種多様な形で我々の前に結集し、千年の種が再び花を咲かせたということである。
「花の君子」であろうと「浄土の仏花」であろうと、私は是非その音を聞いてみたい。遠い昔のハスの花が開くときに、胸をときめかせる音が本当にするのかどうかを。
人民中国インターネット版 2010年11月9日