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japanese.china.org.cn | 15. 08. 2012 |
毒ガス島と呼ばれるこの島の正式名称は、大久野島という。本州と四国の間、瀬戸内海の国立公園にあり、芭蕉の葉のように静かに大海に浮かんでいる。
島は木が生い茂って、風景も美しい。1988年に建設された大久野島毒ガス資料館は、大久野島の埠頭から約200メートルのところにあり、面積約200平方メートルの建物だ。陳列室に入ると、まず眼に飛び込んでくるのは、毒ガスを作る容器、たとえば冷却器、液体の輸送パイプ、溶解溝などだ。周りのショーウィンドーには、各種防毒ガスマスク、ゴム製作業ユニフォーム、毒ガス弾の残骸、資料と写真がある。
展示では、日本軍が当時、中国で毒ガス戦争を行った写真、中日戦争時の化学戦争の記録や中国側は日本化学戦争に抗議を提出した資料などが見られる。
大久野島毒ガス資料館の資料によると、この場所を選んで毒ガスを作った理由は、周囲が海に囲まれ秘密を守ることができる以外、毒ガス漏れや汚染が近隣住民に危害を与えないことからだという。また、東京からかなり離れており、事故が発生しても東京の安全を脅かすことがない。
本来の大久野島は耕地と民家が点在する平和な島だったが、明治維新後の対外拡張がこの小島の運命を変えた。
日清戦争時期、日本はこの島で「中国からの攻撃に備える」砲台を作り始めた。1926年、陸軍科学研究所は正式に化学武器を製造し始め、1927年日本政府はこの島の十数人の住民、砲台看守、灯台守、墓地など施設を外に移設して、この島に軍用工場を建設し始めた。
これらの活動は秘密裏に行われた。機密を守るために、当時の大久野島は瀬戸内海の地図から消えたという。陸軍大臣の許可がなければ、だれも島に上陸することはできなかった。
1929年、毒ガス工場は正式に毒ガスを作り始めた。当初の作業員は80人だった。1945年敗戦し投降までに、この工場は合計6500トンの毒ガスを作りあげた。イペリットガス、青酸などの毒ガスがこれに含まれている。紹介によると、ここで生産した毒ガスで全人類を毒殺できるほどの量だという。
1963年に国民休暇村として正式に開放されたが、時に、当時の化学兵器が発見されるときもある。現在もなお、島での飲用水は外部から運送する必要があるという。
「中国網日本語版(チャイナネット)」 2012年8月15日
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