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japanese.china.org.cn | 25. 07. 2014

中日甲午戦争120周年 中国人は国辱を忘れず

タグ: 甲午戦争 

 1894年9月17日、清朝の北洋艦隊と日本海軍は黄海大東溝海面で血戦を繰り広げた。これは中日甲午戦争で最も熾烈な黄海大戦である。北洋艦隊を指揮した鄧世昌(右上)は「致遠」艦などを率いて命がけで戦い、損害を受けた艦を敵側主力艦の「吉野」に突撃させ、艦全体の兵士250人以上が国のために殉死した。写真は戦闘中の「致遠」艦。

 

1894年7月25日、日本の軍艦が豊島海域で済遠、広乙の兵士輸送船2隻を宣戦布告せずに急襲し、甲午戦争(日清戦争)が幕を開けた。1カ月以上後の黄海海戦において中国艦隊はの日本艦隊に敗れた。翌年2月、アジア最強と言われた艦船25隻、4千人以上の兵士を備えた中国の近代的海軍艦隊である北洋艦隊が、威海衛(現在の威海市)で全軍が敗れた。

敗戦した中国は日本と不平等な「馬関条約」(下関条約)を結んだ。条約には台湾島及び全ての附属島嶼、澎湖列島、遼東半島を日本に割譲すること、日本に軍費の銀2億両(1両は50グラム)を賠償することなどが含まれていた。この後、中華民族はさらに深刻な災難に陥り、亡国と滅亡の縁へと一歩一歩進んでいく。甲午戦争は中国の各階層の人々を覚醒させ始め、様々な形式で救国の活動へと身を投じさせることになる。

再び甲午の年がめぐってきたが、炎黄の子孫(中国人)は国辱を忘れず、使命を心に銘記し、国のために力を尽くす。(編集YH)

 

「人民網日本語版」2014年7月25日

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