雲南省保山市竜陵県腊勐郷の大松山は、第二次世界大戦のテン西抗日戦争の主戦場である。横断山脈・高黎貢山山脈に属し、大小20あまりの山々からなる。標高2200メートルの主峰の頂上からは北、東、南の3方向に迫力のある世界で2番目に大きい谷・怒江峡谷が見下ろせる。怒江の東には絶壁がそびえ立ち、西には松山があり、荒波が岸に打ち寄せ、高山が雲を貫く。有名なビルマ公路は恵通橋を通って怒江を越えた後、絶壁の間を40キロメートル以上続き、「一夫関にあたれば万夫も開くなし」と言えるほど険しく、米国の軍事専門家は「東方のジブラルタル」と称した。第二次世界大戦中、中国南部最大の戦役となった松山戦役はここで行われた。
現在の松山戦役遺跡は腊勐郷大埡口村の東西両側にある松山の山頂一帯に集まり、その範囲は約4平方キロメートルに及ぶ。大小松山、黄土坡などの大小7つの高地のいたるところにトーチカ、塹壕、砲弾でできた穴などがあり、松山の主陣地の中国軍坑道作業遺跡、大爆発坑、滾龍坡、鷹蹲山などの戦場遺跡がある。龍陵県委員会、政府及び上級の関係部門は松山遺跡の保護と開発を重視し、抗日将士共同墓地の修復に13万元を拠出し、3基の代表的な説明碑と18基の遺跡の説明碑、1本の山道を建設。1986年5月、松山は省級重点文物保護単位に指定され、2006年5月に松山戦役遺跡は国務院、文化部から第6陣全国重点文物保護単位に認定された。
松山戦役には、約100日で10組の遠征軍、計2万人の兵士が参加した。死傷者は7763人(行方不明者を含む)で、うち死者は4000人、負傷者は3773人、行方不明者は50人。日本軍の1250人を殺害し、敵側と中国側の死傷者の比率は1:6.2、戦死者の数は負傷者を上回った。松山戦役は日本軍が第二次世界大戦中にアジアで最初にせん滅させられた戦役であり、中国軍が攻略に成功した最初の戦役でもある。1944年5月、テン西遠征軍は怒江を渡った後、面積わずか18平方キロメートルの松山に2万人以上の兵士を投じた。3カ月で7763人の命と引き換えに、日本軍の1300人をせん滅させた。
「中国網日本語版(チャイナネット)」2017年5月24日