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japanese.china.org.cn |18. 08. 2017

武漢の慰安所遺跡 最多で60カ所の慰安所があった

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 武漢市の積慶里は武漢地区の慰安所の中で設備が比較的整い、慰安婦が最も集中する場所だった。

世界慰安婦記念日にあたる8月14日、ドキュメンタリー『二十二』が上映され、慰安婦問題が再び注目された。武漢市には保存状態が良好な日本軍慰安婦遺跡がある。1938年10月25日から27日、日本侵略軍は漢口、武昌、漢陽を侵略し、積慶里、大華飯店、生成里、聯保里、斗級営、糧道街などに次々と「慰安所」を設立した。中でも積慶里は最も規模が大きい。台北の「国史館」が発見した日本の戦争資料によると、1938年12月10日の『第二軍華中武漢地区状況概要』に武漢慰安所は同年11月25日に開設されたと記載されている。1939年、武漢地区には20カ所の慰安所があり、最も多い時で60カ所以上あった。積慶里は武漢地区の慰安所の中で設備が比較的整い、慰安婦が最も集中する場所だった。積慶里慰安所は日本陸軍が管理し、約280人の「慰安婦」がいた。うち、韓国人は約150人、日本人は約130人。

中国を流浪する韓国の慰安婦を描いた初の中韓合作劇『別忘了我(私を忘れないで)』に、「積慶里慰安所には5カ所の出入り口があり、どこにも日本の憲兵が立っていた」という台詞がある。当時、積慶里慰安所に勤務していた日本軍武漢兵所の山田清吉副官、積慶里慰安所で軍医をしていた長澤健一氏は1978年と1983年に日本で『武漢兵所』と『漢口慰安所』を出版した。これらは積慶里慰安所の建設の一部始終を写真、方位図、見取り図つきで記録し、日本軍が武漢に慰安所を設置した重要な証拠となっている。

「中国網日本語版(チャイナネット)」2017年8月18日

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