日本において著名な中国文学者であり、中央大学文学部の教授でもある飯塚容氏は大学在学時代から中国文学の翻訳を始め、これまでに40人以上の中国人作家の作品80作以上を翻訳し、日本における中国文化の普及という面で大きな貢献をしてきた。このほど飯塚氏は人民網の取材に応じ、中国に興味を持ったきっかけ、改革開放40年間の中国の発展ぶり、中日の今後の文化交流などについて語った。人民網が伝えた。
飯塚氏はもともと文学が好きで、中学校、高校の頃から日本の文学、欧米の外国文学を主に読んでいた。そのこともあり、大学進学の際は文学部に入ることを考えていたという。飯塚氏が東京都立大学1年生の時、同大学の中文研究室を訪れる機会があり、そこで飯塚氏の父親のことを知る複数の先生と対面した。
中国文学の研究者である飯塚氏の父親も文学の翻訳などをしており、有名な作品では、『紅楼夢』を翻訳していた。父親は飯塚氏に対して、中国文学の道に進むことを直接勧めることはなかったが、家庭環境の影響もあり、結果的に中国文学の道を選ぶようになったという。
飯塚氏は1983年の3月、日本の魯迅研究者の訪中団という形で、魯迅に関わる三都市である上海、南京、紹興を訪れた。これが飯塚氏にとって初の中国訪問となった。その当時の中国は現在とは非常に異なり、交通は非常に不便で、一つの都市を移動するのにも、汽車や飛行機のチケットを購入するのにかなり苦労したと飯塚氏は振り返った。しかし、物価は非常に安く、宿泊費も食費も安く抑えられたという。現在の中国は、全てが便利になったものの、物価は非常に高くなり、都市部では日本と変わらないような状況にまで変化してしまったと飯塚氏は感じている。
飯塚氏は、改革開放の40年間に中国では非常に大きな変化があったとしている。飯塚氏が大学の学部で中国文学を学び始めた頃、中国はまだ文化大革命の時代だった。そのときは自分が直接中国に行き、中国の作家と交流するようになるとは予想もしていなかったという。改革開放が始まることを最初に耳にした際、飯塚氏は半信半疑の状態だった。しかし、その後の中国の発展ぶりには目を見張るものがあり、中国がそのように発展していくということを非常に喜ばしいことだと考えるようになったという。
その発展ぶりの裏側で中国では現在、環境汚染問題、貧富の格差、人材の海外流出など、様々な問題が生じており、飯塚氏はそのことに非常に心を痛めているとした。
飯塚氏は、これまでの中日の文化交流について、「2012年頃から日中間の文化交流は、やや停滞状態にある。このことに私は大変心を痛めている。かつては『日中女性作家会議』とか『日中青年作家会議』といったような日中間の文学交流の機会があり、中国の作家と日本の作家が話し合いをするという試みが行われていた。これが日本と中国の間の文学交流に非常に良い効果をもたらしていたが、現在ではそのような機会がなくなってしまい、非常に残念」とした。
また、飯塚氏は今後の中日間の交流について、「中国、日本のどちらにおいても、人々の目が欧米の方に向けられており、文化交流も欧米が中心になっている。日本と中国の間には非常に長い文化交流の歴史があり、先人たちが築いてきたこのような交流の歴史を無にすることなく、私たちがそういった伝統を引き継ぎ、中国と日本が互いに文化面において、最近の新しい文学の成果も含めて、互いの良い部分を見ていくといったことが必要である」との見方を語った。(文・木村雄太)
「人民網日本語版」2018年12月19日