「人の出会いには、その人の人生を変えるような出会いがある。私は戦後、労働運動に入り、活動していた。『毛沢東選集』に出会ったのは1952年のことである。技術専門であった私にとって、それまで知らなかった世界がそこにあった。私はひたすらに読み、学び、そして私は変わっていった」。これは『人民中国』88年6月号に掲載されたある日本の友人の感想である。作者は神宮寺敬さん。神宮寺さんは、『人民中国』の古くからの読者であり、友人でもある。今年で御年101歳になるこの友人は、中国共産党とほとんど同年齢でもあり、しかもかつては共産党の軍隊を敵とする日本軍人だった。敗戦後、日本に帰国して労働運動に参加する中で、『毛沢東選集』と出会い、自ら会社を経営するようになってからは、娘を中国留学にも送った。この101歳の友人と中国共産党との物語を伺うために、東京支局の記者は山梨にある神宮寺さんの家を訪れた。
『人民中国』1988年6月号 創刊35周年を記念した神宮寺さんからの寄稿
敵は中国共産党の部隊だった
神宮寺さん宅の外には、自ら世話をしている小さな水田が広がり、初夏の日差しの下で苗が力強く育っていた。「私たちが食べるお米は、全て自分で育てたものなんですよ。自力更生、{かんく}艱苦奮闘の共産党の精神です」。取材を始める前に、神宮寺さんは誇らしげに語った。次女の伸子さんが隣で、「私たちの家には、労働は光栄であるという気風があって、農作業はずっと続けています。毎年、田植えと収獲の時期になると、目の前の仕事はいったん横に置いて、家に帰って家族みんなで農作業をするんです」と言葉を添えた。
労働を重視する精神は『毛沢東選集』からの影響でもあり、また若い頃に神宮寺さんが参加した労働運動の経験にも起因している。45年、日本が敗戦し、第2次世界大戦は終結した。日本国内では労働運動がにわかに盛り上がり、かつて軍人だった神宮寺さんも帰国後は労働組合の責任者として、運動に身を投じた。それが、神宮寺さんが『資本論』『毛沢東選集』などの大著を読み深めていくきっかけとなった。「労働運動をしっかりと行うために、本を読むだけでなく、ラジオでモスクワ放送や、北京放送も聞きました」と神宮寺さんは若き日に労働者の生活の権利を守るために行った運動の経験を思い出しながら、笑顔で語った。「私は部隊では通信兵だったので、当時の政府に禁止されていたこうしたラジオ放送も、無線技術を使って聞くことができました」
『毛沢東選集』との出会いについて語る神宮寺さん
ラジオを通じて、神宮寺さんは毛沢東の名前を知った。「52年、三一書房が『毛沢東選集』を出版し、新聞に社長のインタビュー記事が掲載されていました。社長は毛沢東についてとても詳しかったのでしょう。インタビューでは、毛沢東の革命の生涯について紹介していました。私はラジオで毛沢東の功績については知っていましたが、記事を読んでからは毛沢東の著作にも興味を持ちました」。この好奇心が、神宮寺さんが『毛沢東選集』をひもといていくきっかけとなった。
「『毛沢東選集』を読み終わり、特に軍事思想に深い感銘を受けました。毛沢東は文章の中で、日本軍をこぶしに例えていました。強く握られたこぶしが激しく振り下ろされたとき(まとまって攻撃を仕掛けてきたとき)、中国軍は分散して攻撃をかわすように指令し、日本軍が握ったこぶしを解いたとき(ばらばらに攻撃を仕掛けてきたとき)、中国軍は再び兵力を集中して日本軍を攻める。そうすれば、勝利することができると説いていました。読み終わって大変深く感銘を受けました」。深く印象に残った文章について、神宮寺さんは今でもよどみなくその内容について語ることができる。
記録に基づいて自ら整理した軍隊での経験
このとき受けた感動は、神宮寺さんが軍隊に所属していたことと関係している。43年、中国南部に派遣され駐留していた神宮寺さんは、南京周辺の見張りを担当していて、新四軍とも戦闘をしたと当時のノートに記録していた。「幸いなことに、どこに行って何をしたのかという当時の記録は仔細につけていました。そうでなければ、80年前のことを改めて思い出すことは難しいですね。ただ、日本に帰って『毛沢東選集』を読んでから、あの新四軍が毛沢東率いる中国共産党の部隊だったと知ったんです。また、毛沢東が日本を徹底して分析しているのを知って、道理で日本は彼らとの戦いに敗れるわけだと思いました」
理論を現実に結び付けて、生活の中で運用する
『毛沢東選集』から得た知恵は、神宮寺さんの仕事の中で応用された。自らが経営していた会社の経営理念について、神宮寺さんは冗談っぽく「ゲリラ作戦」という言葉を用いて説明してくれた。「会社の規模を盲目的に大きくすることはしませんでした。本社もつくらず、オフィスも買わず、仮に将来破産しても、資産清算は簡単に済んで、人目を引かずに退くことができます。これはゲリラ作戦みたいじゃないですか? 大事なことはこうすることで不必要な支出を節約し、その分従業員により多くの給与を出すことができて、彼らの生活を保障できます。労働者が最も重要ですから」
神宮寺さんはすでに会社経営を息子に託している。日頃、よく言い聞かせるのは、「会社を経営するというのは、従業員に頼るということで、労働者の力を発揮することだ」という言葉である。
読者を代表して1966年に人民中国雑誌社の招待を受けて中国を訪問した神宮寺さん。この訪中では、毛沢東がかつて拠点としていた延安も訪れた
次女の伸子さんにとって、『毛沢東選集』との出会いは一家の生活を変えたようである。伸子さんが物心ついた頃には、本棚にはすでに『資本論』や『毛沢東選集』といった著作が置かれていた。「成長する中で、知らず知らずのうちに影響を受けていたようです。最も印象深く残っているのは、毛沢東の矛盾論と実践論です。特に実践論については、小さい頃から父も私たちに先入観と偏見を持ってはいけないと、実践してみて初めてどういう状況か分かるんだと、何度も言っていました。日中国交正常化前に、私たち姉弟3人は中国を短期訪問したこともありましたが、出発前、父は私たちに中国はどういったところか伝えませんでした。自分で体験して、発見させるためだったんだと思います」
伸子さんは74年に広州に留学し、中国医学を学んだ。「留学はカルチャーギャップにあふれていて、とても面白かったです。留学中、私は自ら志願書を書いて、中国のクラスメートと一緒に下郷(都市の青年を地方での労働につかせたこと)にも参加させてもらいました。日中は、みんな先生の指導の下で問診をして、夜は地面にわらを敷いて寝ていましたね。また診察のとき、相手は方言を話していたので何を言っているか私はよく分かりませんでしたし、相手もまさか自分を見てくれているのが日本人留学生だとは思わなかったでしょう」。留学時の思い出を振り返りながら、伸子さんは笑顔で語った。
留学中の大変な状況にも快活な態度で向き合っていた伸子さんは、まさに現場主義を優先する精神を深く体現している。また、神宮寺さんは中国共産党の指導者の著作と思想に触れて、先の戦争への反省を深め、日中両国の平和友好の意義を熟考するようになった。こうしたこともあって、神宮寺さんは積極的に『人民中国』を紹介するようになり、また「知中国、愛中国」の種をまいている。90歳になってからは、毎年の中国訪問を継続している。出会い、実践、交流が織り成す、101歳の友人が中国共産党と縁を結んだ数十年の歳月。神宮寺さん一家と中国の物語は今後も続いていくことだろう。
人民中国インターネット版 2021年6月23日