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japanese.china.org.cn |20. 08. 2021

50年目の証言――ピンポン外交 日本人青年が見た米中交流の一瞬

タグ: ピンポン外交

   歴史が動くその瞬間に立ち会えることはめったにない。運や偶然はもちろん、ささやかであっても内に秘めたる志があってこそチャンスに巡り合うことができる。


   50年前、名古屋市で開かれた第31回世界卓球選手権大会で偶然、中国選手団の送迎バスに米国選手が乗り込んだ。突然の珍客に車内は凍り付いたが、機転を利かした中国のエース選手が米国選手に歩み寄り、中国・黄山が描かれたペナントを手渡すと温かい空気に一変した。現在、名古屋市在住の横井義一さん(76歳)は、ボランティアとして中国選手団の警備と米国選手の通訳を買って出ていて、このハプニングの一部始終をすぐそばで目撃した。

 

   時計の針をハプニングのあった1971年4月4日に戻す。


   東西冷戦の真っただ中。中国の参加を快く思わない右翼の嫌がらせから中国選手団を守るため、日中友好団体などでつくる中国卓球代表団東海歓迎実行委員会は、警察とは別にボランティアの「自主警備団」を組織した。


   当時、横井さんは26歳。歓迎実行委に名を連ねる地元の中国貿易商社・協和交易の社員で、大会期間中は中国選手団に付き添った。会社は名古屋市の繁華街、栄地区のビルの一室にあり、同実行委の事務局にもなっていた。


   横井さんはその日も中国選手団の送迎バスに同乗。練習会場の愛知県スポーツ会館で選手のウオーミングアップを待つ間、玄関で不審者の侵入に目を光らせた。練習後、選手・コーチら全員がバスに戻ったのを見届け、前から2列目の通路右側の席に座った。


   バスが試合会場の愛知県体育館に向けて出発しようとしたとき、「待ってくれ!」とUSAロゴのジャージを着た長身の男が乗り込んで来た。肩まで髪を伸ばし、ラフな仕草は米国社会を席巻したヒッピー文化の影響を受けた青年に映った。


   後で判明するが、れっきとした米国代表卓球選手団のグレン・コーワン選手だった。


   横井さんは、「彼は『うん?間違えた』という顔になり、降りようとした。すると左側中ほどに座る役員らしき小太りの男性が『上吧(乗りなさい)、上吧』と手招きし、私もバック、バックと叫んだ」と身振り手振りでその場面を再現した。


 


現在は協和交易の会長を務める横井義一さん。創業から60年。同社の社是「日中友好」は今も変わらない(名古屋市内の同社で)


   声が届いたのかコーワン選手は振り向き、ステップを上がり、横井さんのそばで立ち止まった。選手団から一斉に低い声が上がった。「美国人民(あっ、米国人だ)」。後部座席にいたエースの荘則棟選手がすかさずコーワン選手に歩み寄り、黄山の風景が描かれたペナントを手渡した。


   コーワン選手はペナントを受け取ると、今度は自分のスポーツバッグを開き、何やらぶつぶつ。横井さんが顔を近づけると、「持ち合わせがないので、後でホテルに届ける」と言う。中国側通訳に伝えると、今度は拍手が沸き起こった。


   「中国語、英語とも片言ですが、『美国人民』には『われわれの友達』との温かい思いがこもっていた。そして『bring』(持って行く)と『hotel』(ホテル)の発音がはっきり聞き取れました。そばの私服警官が『英語が上手ですね』とお世辞を言ってきた」と横井さん。


   コーワン選手は空いた席に座り一緒に試合会場へ。「外ではカメラマンが窓ガラス越しに『開けて』とジェスチャーしていましたが、無情にもバスは出発。5分ほどでバスが愛知県体育館の正面に近づくと、大勢の報道カメラマンや記者が待ち構えていました」


   翌日、コーワン選手が荘選手にTシャツを贈ると、両国の「友好ラリー」は熱を帯びて行き、大会最終日の4月7日、中国政府が米国選手団を北京に招くというビッグニュースが世界を駆け巡った。


 

友好のきっかけとなった黄山のペナントを手にするグレン・コーワン選手(手前右)と荘則棟選手(手前左)


   横井さんが体育館の外で一服していると、中国選手団の参加をサポートした日中文化交流協会の村岡久平事務局次長が隣に座り、「びっくりだね。中国が米国選手を北京に招待するんだって」。横井さんは「北京へ?」と聞き返した。「すぐには事態がのみ込めなかった」と今では苦笑する。


   当時、横井さんは社会人2年目だった。旧東亜同文書院の建学精神を受け継ぐ愛知大学大学院を69年に卒業。繊維関係の中国貿易会社に就職したが、年末に協和交易に転職した。


   しかし、協和交易の台所はひっ迫していた。入社翌年の夏頃、決済資金が足りないから親に工面してもらってくれないかと、入社半年の社員に社長が泣きついて来た。「『日中友好の社是』と現実の厳しさを思い知らされた」という。


   横井さんは腹立たしさをこらえ、父親に頭を下げた。前の会社で春の広州交易会に出張する数日前、「共産党の国に行ってくれるな」と横井さんの前に立ちはだかったのは父親だった。「田舎では世間体があった。それでも父は何も言わず50万円を用立ててくれた」


   親のありがたみを胸に、この年の10月、秋の広州交易会に社長と出張。約1カ月の滞在中に通訳と仲良くなり、窯業や漢方薬の原料などを上手に買い付けた。

「商談は成功裏に終わった」。友好商社の社員として日中友好に尽くしていこう、と横井さんは決意を新たに帰国した。


   借金を工面した父親の苦労は後に知ることになる。72年1月、横井さんは自身の結婚披露宴で、父親のいとこから「父は田んぼを抵当に農協から借金してくれた」と聞いた。その親戚から「『よっちゃん(義一)は先を見る目があったね』と言われ、父の深い愛情に感謝した」


   協和交易は倒産の危機を切り抜け、横井さんはボランティア警備員として世界卓球選手権で歴史のひとコマに遭遇する。「ピンポン外交」は米中の雪解けや日中国交正常化を後押しする。会社は、中国の改革開放の追い風に乗って右肩上がりに業績を伸ばしていった。


   「やけを起こして会社を辞めていたら中国選手団の手伝いはもちろん、今日の私はない。愛知大・大学院OBの誇り、『日中友好の社是に帰れ』という天の声(励まし)があった」と、横井さんは今も大切にする記念メダルに目をやった。


    かつて鑑真が命懸けで渡った海をまたいで握手する図柄を「日中友好1971」「第31回世界卓球選手権大会」「中国卓球代表団東海歓迎実行委員会」の文字が囲む。横井さんは、困難が立ちはだかったときこのメダルを見返すといい、創業60年の中国貿易商社の会長として新たな夢に向かって奮闘は続く。


 


第31回世界卓球選手権大会のサポーターに贈られた記念メダル(提供・横井義一)