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japanese.china.org.cn |19. 09. 2019

日本の大平正芳元首相の中国との縁

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(国际·图文互动)(1)通讯:日本前首相大平正芳的中国缘

   日本の四国北東部にある香川県は遣唐使の空海和尚の故郷である。空海が唐に渡って1000年以上が経った頃、ここから現代の「友好の使者」が再び現れた。彼は中日国交正常化を推し進め、中国の改革開放初期の建設に大きく貢献した。その人物は日本の大平正芳元首相である。

 

    香川県の観音寺駅付近にある大平正芳記念館の入り口の両側には大きなカラー写真が飾られ、中日国交正常化前後の歴史的瞬間を記録している。大平氏らが中国の指導者と握手して楽しく語り合い食事を共にする様子、両国指導者が『中日共同声明』に署名する様子、中国側が日本側にパンダを寄贈した際の写真などがある。

 

     1972年9月、大平正芳氏は外務大臣として当時の田中角栄首相に同行して訪中し、交渉を経て両国は『中日共同声明』に署名した。同年10月パンダの「康康(カンカン)」と「蘭蘭(ランラン)』が中日友好の象徴として東京の上野動物園に寄贈された。

 

     1974年1月、大平氏は外相として再び訪中し、『中日貿易協定』に調印。1976年から1978年まで、大平氏は福田赳夫内閣の自民党幹事長を務め、日本政府と中国の『中日平和友好条約』の締結を積極的に支持した。

 

    日本の政界・経済界および多くの国民は、大平氏は遠くの見通しと卓越した見識を持つ経済学者だというイメージを抱いている。さらに、彼が池田勇人内閣の「所得倍増計画」などを制定し、日本経済の急成長の基礎を築いたこともよく知られている。大平氏は首相在任中に中国への開発援助を積極的に推し進め、中国の改革開放初期の各建設に貢献した。

 

    大平氏の孫娘の渡辺満子氏は記者に対し、大平氏は幼い頃から勤勉で、漢学に興味を持ち、中国に親しみを抱いていたと明かした。「中国の各界との交流を通し、祖父は中国の発展への情熱と海外の先進技術と経験を手本にする決意を深く感じた。中日国交正常化後、中国の現代化実現にできる限り協力することが祖父の願いだった」と渡辺氏。

 

   北京日本文化センターの責任者の高橋耕一郎氏によると、1972年の中日国交正常化以降、各分野の交流ニーズが急激に高まり、当時の外相だった大平正芳氏は中国の日本語人材の育成をサポートすべきだと示した。1979年、大平氏は首相として訪中し、中国側に正式に提案した。1980年、中国教育部と日本国際交流基金は北京語言大学に日本語研修センターを共同設立し、のちに「大平班」と呼ばれるようになった。わずか5年で、同センターは600人以上の日本語教員を育成し、中国の日本語人材を急速に充実化した。1985年、「大平班」は北京外国語学院に移転し「北京日本学研究センター」に改名し、これまでに1000人以上の修士・博士を育成し、中日の交流・協力において重要な役割を果たしている。

 

   2018年は中国の改革開放政策実施40周年にあたり、大平正芳氏に中国改革友好賞が授与された。渡辺満子氏はすでに逝去している祖父の代わりに中国を訪れて受賞した。彼女は祖母で大平正芳氏の夫人が残した、袖に平和を象徴する鳩がプリントされた和服を着て受賞。彼女は、「40年で中国は目覚しい発展を遂げた。祖父がこれらを見たら嬉しくて笑顔になるに違いない」と話した。帰国後、渡辺満子氏は賞状を両親に見せた。渡辺満子氏の父で大平正芳氏の秘書を務めた森田一氏は、「大平正芳が中国改革友好賞を受賞したことに非常に喜んでいる。また、中国が改革開放で上げた成果に感心する」と述べた。

 

    香川県観音寺市にある国道11号線は「大平記念通り」と命名され、大平氏の墓が近くにある。大平氏の選挙事務所で秘書をしていた東山昭子氏によると、大平氏は人民から期待され、毎年の誕生日と命日の前後には全国各地から追悼に訪れ、中国政府関係者や民間人も大平正芳記念館と大平正芳墓所を訪れている。「日本人は大平氏のことを忘れておらず、中国も覚えていることに感動した」と東山氏。

 

    渡辺満子氏は、「祖父の一生は中国と切っても切れない縁があった。昔から今に至るまで、日本と中国もそうである。日中両国が共に発展し、友好が長く続くとよい」と話した。



「中国網日本語版(チャイナネット)」 2019年9月19日

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