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チベット封建農奴制廃止と欧米の「奴隷廃止」①
発信時間: 2009-02-26 | チャイナネット

中国のチベット地方は20世紀中葉までずっと政教一致の封建農奴制の統治下にあった。それはどんな制度だったのか。19世紀と20世紀上半期にチベットに入った西側の宣教師や探検家、植民者は次のように描出している。

フランスの旅行家、アレキサンダー女史はその著作『古老チベットが直面する新生中国』の中で、「チベットでは、すべての農民は終身、債務を負う農奴であり、彼らの中に債務をすでに返済した者を探し出すことはできない」と記している。一方、1920年代にチベットで英国の商務代表を務めたマイクタナー氏は『チベットの写真』にこんなふうに記載している。「チベットで最も重い刑罰は死刑である……。およそ死罪に遭えば、罪人を皮袋の中に縫い込め、河に放擲し、死を引き延ばすために沈めさせ、皮袋は表面に上がると、およそ5分後には下降し始め、後にまだ生きていると見るや、再び投げて沈め、死に至ったところで、遺体を皮袋から取り出して切断し、四肢と胴体を河に投げ込み、流れとともに去っていく……。生きることはできても、さまざまな障害が残る。切断のほか、眼球をえぐる極刑や、凹型に熱い鉄を眼内に入れたり、煮えたぎる油やお湯を眼内に流し込んだり、いずれも視力を失わせるのに足るものであり、そして眼球を鉄のかぎでつかみ出す……。その本源は損なわれ、喪失する。犯罪者や容疑者は、常にじっとりして暗く、不潔な衛生的ではない土牢に拘禁され、永遠に天日を見ることはない」

19世紀に至り、世界の大多数の国・地域で農奴制はすでに歴史となっていたが、チベット地方では政教一致の封建農奴制は1959年になってようやく消滅した。

 

封建農奴制の末路

人類史上、比較的典型的な農奴制があったのは西欧であり、一方、農奴制を廃止、農奴制が比較的遅く見られたのはロシア、米国である。ロシアの農奴制は15世紀下半期から19世紀上半期まで存在し、米国の農奴制は主に南部に存在し、黒人奴隷の売買・輸送により形成されていった。しかし、欧米と比べ、20世紀中葉前のチベット地方の政教一致封建農奴制の暗黒さと残酷さはその比ではなかった。

例えば、当時のロシア帝国の法律の規定によれば、領主は農民の財産や婚姻など、家庭の問題に関与する権利を有していた。一方、旧チベットでは、領主は随意に農奴の財産を剥奪できるばかりか、農奴本人及び彼らが産んだ子女までもが主人の財産となり、随意に処理することができた。チベット総人口の95%以上を占める農奴と奴隷に、人身の自由はなく、農奴の子女は生まれれば、終身農奴として登記される。領主が異なる男女の農奴が結婚するには、「身請け費用」を納める必要があり、男性と男性、女性と女性を交換する方法、男子を産めば夫の側の領主に、女子を産めば妻の側の領主に属するなど、その身分が変わることはなかった。

1649年のロシア帝国の『法律全書』は、封建領主は法廷で自己の農民に対し全責任を負い、領地内において農民に判決を下し、鞭を打ち、拷問し、足かせや手かせをはめ、鎖につなぐ権利を有すると規定している。チベットでは、農奴に対して眼球をえぐる、耳を裂く、手を切断する、足を切り刻む、体の筋を引き抜く、水をかけるなど、あらゆる限り極端な手段を取り、その残酷さはまさに上述した西洋人が描き出しており、世に大量に残るチベット語文献のこれに関する記載はより明確だ。

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