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チベット封建農奴制廃止と欧米の「奴隷廃止」②異なる実現の道のり |
発信時間: 2009-02-27 | チャイナネット |
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チベット封建農奴制廃止と欧米の「奴隷廃止」①封建農奴制の末路
同じ「奴隷廃止」、異なる実現の道のり チベット地方の政教一致封建農奴制の廃止は英国、フランス、ロシア、米国の農奴制、奴隷制廃止と同様、社会制度に根本的な変革をもたらした。注視するに値するのは、チベット地方がそうした「奴隷廃止」運動の中で、異なる歴史過程を経ているということである。 先ず、時間的に見れば、チベットの「奴隷廃止」は、大英帝国(1833年)やフランス(1848年)、ロシア(1861年)、米国(1865年)に比べると百年近くも遅れていることだ。チベットの封建農奴制の存在期間はさらに長く、その暗黒さや立ち遅れ、反動性はより明らかである。 次に、農奴制廃止の主導力が異なることだ。ロシアの「奴隷廃止」は君主のアレキサンダー2世が、新興ブルジョアジーが勢力を増し、農奴が絶えず抗議を引き起こし、社会の進歩派インテリが積極的に提唱し、またクルミア戦争で失敗したことが刺激となって主導した。米国の「奴隷廃止」はブルジョアジーの領袖が指導し、奴隷制に反対するキリスト教関係者が幅広い「奴隷廃止」を求める大衆の大きな協力を組織して推し進め、また南部の奴隷が暴動を起こしたことなどで促された。チベットの「奴隷廃止」は、封建農奴制領主による反動的な武装反乱の中で、中国共産党員に民主革命の実現という偉大な使命を担って欲しい、という百万に及ぶ農奴の求めに応え、中央人民政府の指導の下で達成されたものである。 第3に、「奴隷廃止」の方法や取り組み方が異なることだ。中国の「奴隷廃止」は平和、民主的な方法で進められた。一方、フランスやロシア、米国などは暴力的な手法で実現した。米国の「奴隷廃止」の英雄、ジョン・ブラウンは正義のために亡くなる直前、遺言を残した。「わたし、ジョン・ブラウンはいま、鮮血をもってこそ、この罪ある国土の罪悪を洗い流せると強く信じている」
異なる「奴隷廃止」への道、収めた異なる成果 指導者が異なれば、奴隷制廃止の目的も異なる。チベット地区と欧米の「奴隷廃止」がもたらした結果にも大きな差がある。 英国の農奴制廃止運動は持続的かつ徹底したものだったが、その後に確立されたのは君主立憲制だった。フランスは農奴制廃止後、ブルジョアジーが勝利したものの、栽培園の奴隷から工場労働者になっても、奴隷のように酷使される境遇はまったく変らなかった。 ロシアでは、「奴隷廃止」後も封建農奴制の残滓が色濃く、身代金は非常に高く、夫役の時間もかなり長かったことから、農民は依然として悲惨な境遇に置かれた。1861年の1年間に農村では計2034件にのぼる暴動が発生している。1917年の「10月革命」に至って、農奴制はようやく完全に消滅した。 |
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