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国外勢力がいかにチベット独立を画策してきたか
発信時間: 2009-03-11 | チャイナネット

1840年に英国が戦火を開いたアヘン戦争後、中国は独立した主権国家から徐々に半植民地国家に成り下がった。帝国主義勢力は清の中央政府の弱体化に乗じ、西蔵(チベット)を含む中国領土を分割する陰謀を開始。チベットを英国の勢力範囲に組み込むため、1888年と1903年の2回、英国はチベット侵略戦争を起こした。チベット軍と民衆はこれに奮起して抵抗したが、あえなく失敗。2回目の侵略戦争で英軍はラサを占領し、ダライ・ラマ13世は仕方なくラサを後にした。侵略者はチベット地方政府の官僚に「ラサ条約」を結ばせたが、清政府の外務部は「ラサ条約」は主権を損なうものだとして、チベットに駐留していた大臣にサインさせず、条約は無効となった。

英国は直接軍事侵略によって完全にチベットをコントロールするという目的が達成されなかったため、手の内を変えて、チベットを中国から分裂させる活動を計画し始めた。1907年8月31日、英国とロシアは「英露協商」を結び、その中でチベットに対する中国の主権を「宗主権」と改めた。これはチベット地方に対する中国の主権を「宗主権」と歪曲した初めての国際文書となった。

1911年、辛亥革命が勃発。翌年、英国は清が滅亡し、中華民国成立後まもなくの中国国内の政局混乱を利用して、チベットに対する中国の主権を否定する「五条」の意見を中国外交部に持ちかけた。中国政府がこれを拒絶すると、英国はインドからチベットに至る一切の道路を封鎖。1913年、英国はまたしてもチベット当局を煽って独立を宣言させ、「チベットが完全に独立した後、一切の軍備を英国が支援する」とし、「チベットは英国の独立支援の見返りとして、英国から人員を派遣しチベットの財政・軍事を監督することを認めた」と報じた。

1913年、英国政府は中華民国大総統の地位を略奪した袁世凱の、各国の外交承認と国際借款をどうしても得たいという心理を利用して、北京政府に英国政府が提案した中・英・チベットによる会議「シムラー会議」に出席させた。英国を後ろ盾にチベット代表はこのとき初めて「チベット独立」のスローガンを掲げたが、直ちに中国政府の代表によって拒絶された。1914年7月3日、中国政府の陳貽範・代表は、国内の指示に従って、いわゆる「シムラー条約」への調印を拒否し、「英国とチベットが本日或いは他日結んだいかなる条約或いは同種の文書であっても、中国政府は一切これを認めない」とする声明を発表した。中国政府はこの立場を英国政府にも示し、会議は破局のうちに終わった。

1942年夏、チベット地方政府は英国代表の支持のもと、突然「外交局」の成立を宣言し、公開で「チベット独立」活動を行い始めた。ある情報によると、国民政府も厳正な警告を発令、チベット地方政府は圧力に耐えかねて、国民政府にこの宣言の変更を報告せざるをえなかったという。

1950年上半期、中国解放軍のチベット進行に対抗するべく、米国製の銃や弾薬がカルカッタ経由でチベットに運び込まれた。同年11月1日、ディーン・アチソン米国務長官は中国が本国領土であるチベットを解放する行動は「侵略だ」と公開で中傷した。

ダライ・ラマ14世はかつて、「帝国主義はチベット人民の清と国民党に対する反政府感情を利用して、様々なわなや挑発によってチベット人民を祖国から離脱させ、彼らの圧迫と酷使のもとに置こうと画策している」と指摘した。

「人民網日本語版」2009年3月11日

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