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japanese.china.org.cn |30. 04. 2020

香港 湾仔の海岸線の変遷

タグ: 香港 海岸線 埋め立て



 香港でいち早く発展した地域として知られる湾仔。開港当初からある望海観音古庙(現在の皇后大道東)、当時は海沿いに走っていた電車の線路、その後開かれた告士打道と会議道――青海原が桑田となり、湾仔の海岸線はその後どこも内陸路となり、まるで湾仔の成長の「年輪」のように小さな漁港から繁華な都市へと変貌する歳月を記録してきた。

 

「小手調べ」

 

 香港岭南大学の劉智鵬教授によれば、1840年まで香港住民は農業主体で、人口は主に新界に集中し、香港島の全人口も8000人に満たなかったという。島の北面にある湾仔は人口2000人にも満たない小さな漁港町だった。開港後、湾仔と中区一帯は多くの外国人商人が行き交うようになり、外国人や上流階級の社交の場となっていった。50年代、華南地区で騒乱が勃発し、多くの住民が香港に避難したため香港の人口が激増した。そこで香港政府は湾仔から東一帯の埋め立てを始めた。

 

 湾仔区の文化・歴史・観光を推進するグループがまとめた「湾仔の海岸線探求」によると、1851年、香港政府は最初の海岸埋立計画を作成し、西営盤から銅鑼湾一帯に都市全体を横断する防波堤を建設するよう提案した。

 

 1855年、計画が正式に発表されると、当時の上流階級から船渠の経営に支障が出るとして思いがけず反対に遭った。そこで当時のジョン・ボウリング総督は湾仔の広い窪地(摩理臣山以東、利園山以西、南面は黄泥涌村前の農地)に目を付けた。毎年雨季になると、この低地は三面から溢れる雨水で水没し、使えない土地だった。ボウリングはこの低地を埋め立て、ディベロッパーに転売した。

 

 彼はさらに黄泥涌村前の農地を高くし、競馬場を造る計画を立てた。当時競馬に熱中していた上流階級の人々からこの計画は支持された。今日の鵝頸とその周辺は当時埋立てられた場所だ。

 

 その後60年代に入っても当時の総督が防波堤事業に積極的に取り組んだことで、1868年までに湾仔は雲咸街から般咸道、さらには徳輔道東一帯に伸びる約3.5ヘクタールの新たな土地を増やした。

 

 


大規模な埋め立て


 1890年代から1930年代までに香港の人口は急増し、住宅事情や衛生環境も悪化したことを受け、各界の人々が大規模な埋め立て時代を迎えようと呼びかけた。

 

 そこで政府がまず発動したのが中区海岸埋立計画。『簡明香港史』によると、海岸埋立事業は1889年に始まり、西は西営盤の屈地街から東は中環の海軍船渠という埋立範囲で、全長3.2キロメートル、幅76メートル、埋立てによって広がる土地は24ヘクタールで、従来の海岸線が北に推移し、現在の干諾道中にまで拡張された。

 

 土地の拡張にともない、外国人が急増し、統計によると、1900年前後には香港の人口は30万人にまで増加、湾仔は当時人口密度が最も高い地域だった。引き続き人口密度を減らすべく香港政府は1921年から海旁東海岸埋立計画を展開、埋立て範囲は海軍船渠以東の軍器廠街 に始まり、銅鑼湾にある怡和洋行(ジャーディン・マセソン)の倉庫までだった。

 

 掘削技術不足、作業員のストライキ、事業費の増加などにより海岸埋立事業は思うようにはかどらず、1930年にようやく完成した。湾仔は35ヘクタールの土地拡張だけでなく、配水管や用水路、道路、建物などが再建され、都市の付帯施設も徐々に整備されていった。

 

 海岸埋立事業が完成後、湾仔は多くの海外華僑や大陸部の人々が投資や居住するようになり、工場や店舗、ホテルなどが立ち並び、海岸線を電車が走り、湾仔は急速に発展していった。

 

 



全盛時代


 香港の商業貿易の急成長により、その狭い土地で大きな需要を満たすのは難しかった。1922年、香港は都市計画を担当する委員会を立ち上げ、香港の今後50年の長期発展を計画した。委員会は旺角の避風塘と中環の添馬艦本部を埋立て、九広鉄道とその支線を敷設するという大規模な海岸埋立事業を引き続き行うよう提案。1948年、英国都市計画家のアバクロンビーが別の報告書で、海岸埋立事業を九龍南部まで拡張し、新界を開発し、新たな小都市を建設する提案をした。

 

 1965~1972年にかけ湾仔海岸埋立計画は急速に進められていった。事業完成後、湾仔の範囲は今日の会議道一帯まで広がり、港島北岸の海岸線は再び延伸した。この時期、香港は飛躍的な経済成長の最中で、商業活動も中環区の事業用ビルは飽和状態となり、徐々に東に拡張されてきており、それに呼応するように湾仔海岸埋立事業が進められていたため、湾仔はそのまま重要な商業エリアとなった。

 

 その後、香港芸術センター、 新鴻基中心、香港演芸学院、華潤大廈、香港会議展覧中心、中環中心(ザ・センター)など香港の目印となる建物が次々と落成した。

 

 90年代も湾仔海岸埋立事業はより一層加速し、1983~1991年に香港で刊行された『海港海岸埋立及び市区発展研究』『全港発展策略』『都会計画』など多くの公式文書で湾仔の海岸埋立が急務であると言及された。

 

 特区政府土木工程拓展署の資料によると、湾仔海岸埋立計画は2期に分けられ、第一期は1994年に始まり1997年に終了、香港会議展覧中心の北側、海岸埋立方式で一つの島を開拓し、会展中心が拡張された。第二期は2009年からで、中環と湾仔の迂回路、東区の回廊連結路、その他道路などが建設され、港鉄(MTR)沙田線、中環線、北港島線を対象に延長線となる長い海浜回廊が建設される計画。現在その大部分の工事が完了している。

 

 昨年9月に出版された『湾仔画当年』は、湾仔の海岸線の変遷とともに、湾仔埠頭が昔の海旁東から分域街に移転、さらに会展中心近くに再移転して北上していることや、近い将来或いは九龍と香港の両岸がさらに接近する可能性を示唆している。

 

 

 

 

 

 

「中国網日本語版(チャイナネット)」2020年4月30日