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japanese.china.org.cn |28. 05. 2021

周恩来氏の日本滞在地を訪ねて

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 4月中旬、京都郊外の風景スポット嵐山は新緑に溢れた。100年以上前のこの時期、若かった周恩来氏はここを訪れ、有名な詩集『雨中嵐山』を残し、日本に渡って国救済の道を探る時、最初の困惑から真理を悟るまでに至ったと表現した。


 周恩来氏を研究する学者で法政大学名誉教授の王敏氏によると、当時の日本は西洋の新思想に触れ、各種の社会思潮が集まると同時に軍国主義も動き出そうとしていた。周恩来氏は自ら視察し学ぶことで中国を救う方法を探そうと考えていた。


 1917年10月、周恩来氏は東京の東亜高等予備校で日本語を学び、日本の大学受験の勉強をした。日記に、鉄の杵も磨けば針になるという決心で学ぶ必要があると記している。


 周恩来氏は当時、神田神保町付近に住んでいた。ここは向上心のある中国人留学生が集まる地域で、彼らは集会や革命書物の編集などを行い、国救済の道を探っていた。


 記者は今では日本最大の書店ストリートになった神保町を訪れ、古い看板を掲げた書店が軒を連ねているのを目にした。当時、周恩来氏ここで中国の雑誌や新聞、新文化運動雑誌『新青年』などをよく買っていた。


 『周恩来旅日日記』(以下、『旅日日記』)には神保町書店ストリートにある東京堂書店が何度も登場する。彼はかつてここでロシア十月革命に関する書籍を立ち読みし、十月革命後の政治党派を暗記し、日記にまとめた。またこの時期、日本の早期のマルクス・レーニン主義を広めた人物の作品も読んだ。


 1918年5月の『中日共同防敵軍事協定』調印後、日本にいる中国人留学生は大規模な抗議活動を行った。『旅日日記』を読むと、この時期に周恩来氏は常に国救済を考えていたことがうかがえる。周恩来氏を研究する一部の中日両国の学者は、この抗議活動は周恩来氏の留学における重要なターニングポイントになり、彼の思想と信仰は大きく変わったと見ている。


 当時、国内で次々と起こる出来事と日本軍国主義の野心により、周恩来氏は日本での学業を諦めて帰国することを決めた。


 1919年、日本を去る前日、周恩来氏は京都の嵐山などを訪れ、『雨中嵐山』を含む多くの詩集を残した。『雨中嵐山』に記した「一点光明」は、周恩来氏が社会主義とマルクス主義の思想に触れた感想だとみられている。


 周恩来氏がかつて学んだ東亜高等予備校は、今は公園になっている。1988年の周恩来生誕100周年の際、日中友好団体は公園に周恩来記念碑を設置した。石碑には日本語で「周恩来ここに学ぶ」と刻まれ、隣に周恩来氏の紹介があり、日本人が尊敬していることがわかる。


「中国網日本語版(チャイナネット)」2021年5月28日

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