チベット民主改革50年

二、壮大なチベット民主改革


民主改革を行い、政教合一の封建農奴制を廃止することは、人類社会の進歩・発展の必然的な要請であり、中国共産党が指導する人民民主改革の重要な任務であり、チベット社会が発展するための唯一の道、広範なチベット人民の差し迫った願望でもあった。1959年、中央人民政府はチベットで民主改革を行い、腐り果てた暗黒な封建農奴制を廃止し、チベット史上における画期的で偉大な変革を完成させ、チベット人民の運命を大きく変えることになった。

1949年、中国の人民解放戦争が決定的な勝利を収めたという背景の下で、中華人民共和国の成立が宣言され、北平、湖南、雲南、新疆、西康(民国時期と中華人民共和国成立早期の省であり、主に現在の四川西部とチベット東部を所轄する)などの省・市が、前後して次々に平和的方法によって解放を実現した。中央人民政府はチベットの実情に基づき、チベットに対して平和解放の方針をとることを決定し、さらに1950年1月にチベットの地方当局に「代表を北京に派遣し、チベットの平和解放について交渉する」と正式な通達を出した。1951年2月、14世ダライ・ラマは阿沛・阿旺晋美を首席全権代表に、凱墨・索安旺堆、土丹旦達、土登列門、桑頗・登増頓珠の4人を代表に任命し、北京に赴かせ、中央人民政府との交渉を行わせた。1951年5月23日、中央人民政府とチベット地方政府の代表はチベットの平和解放に関する『17ヵ条協定』に調印した。これによりチベットは平和解放を実現した。平和解放は、チベットを帝国主義侵略勢力の束縛から抜け出させ、長期にわたったチベット社会の閉鎖性・停滞の局面を打破し、チベットの民主改革と発展・進歩のための条件をつくり出した。

『17ヵ条協定』はチベットの各民族人民の賛同と擁護を得た。1951年9月26日から29日まで、チベット地方政府は、すべての僧俗・役人、三大寺の代表が参加した大会を開き、『17ヵ条協定』について専門的な検討を行った。検討の結果、当該協定は「ダライ・ラマの壮大な事業、チベットの仏法、政治、経済などの諸分野に大いに益するところがあり、比類なきものであり、当然従うべきである」と認めた。14世ダライ・ラマは10月24日に毛沢東主席に電報を送り、「双方の代表は友好の基礎の上に、すでに1951年5月23日にチベットの平和解放に関する協定に調印した。チベット地方政府とチベット族の僧俗人民はそれを一致して擁護し、あわせて毛主席および中央人民政府の指導下、人民解放軍のチベット進駐部隊を積極的に支援し、国防を強化し、帝国主義勢力をチベットから追い出し、祖国の領土主権の統一を守る」と表明した。1954年、14世ダライ・ラマ、10世パンチェン・ラマは、いっしょに北京に赴き、第1回全国人民代表大会に参加し、またそれぞれ全国人民代表大会常務委員会副委員長と全国人民代表大会常務委員会委員に選出された。14世ダライ・ラマは会議の席上で、3年余りにわたり『17ヵ条協定』を実行し収めた成果を十分に肯定し、民族区域自治の原則と規定に対して熱烈な擁護の意を表明した。1956年4月22日、14世ダライ・ラマは、チベット自治区準備委員会主任委員に就任しており、準備委員会の成立大会であいさつを述べた際、『17ヵ条協定』はチベット人民に「民族平等のすべての権利を十分に享受させ、自由で幸福な明るい道を歩ませ始めている」と再び肯定した。

チベットの社会制度を改革することは、『17ヵ条協定』を貫徹し、実行するために当然やるべきことである。『17ヵ条協定』の第11条は、「チベットに関する各種の改革は、中央は強制しない。チベット地方政府は自ら進んで改革を進めるべきであり、人民が改革要求を提出した場合、チベット指導者と協議する方法によってこれを解決する」と明確に規定している。チベットの平和解放後、チベットの広範な人民からは改革を求める声が日増しに高まり、チベットの多くの上層・中層の進歩的人士も、旧制度を改革しないかぎり、チベット民族には繁栄の可能性がないと理解した。しかし、チベットの歴史と現実の特殊な状況を考慮して、中央人民政府はチベットの社会制度の改革に対して、きわめて慎重な態度と寛容な政策をとり、チベットの上層支配グループが自ら進んで改革を行うよう辛抱強く説得し、それを待っていた。1956年、中央人民政府はチベットの実情に合わせ、「6年間改革を行わない」という決定を出し、チベット上層部の自覚を待った。1957年1月、国務院総理周恩来はインド訪問期間中にダライ、パンチェンおよび随行のチベット地方政府の主要役人に毛沢東主席の手紙を渡し、中央の決定を伝えた。手紙は、6年間改革を行わないこと、6年後に改革を行うかどうかは、依然としてチベットのそのときの状況と条件によって決めることを強調した。1957年2月27日、毛沢東は『人民内部の矛盾を正しく処理する問題について』の中で、「中央政府とチベット地方政府との17ヵ条の協定に基づいて、社会制度の改革はかならず実行しなければならないが、しかしいつ実行するかは、チベットの大多数の人民大衆と指導的な人物が実行してよいと考えた時にはじめて決定できるのであり、あせってはならない。現在、第2次五ヵ年計画(1958~1962年)の期間には改革を行わないことをすでに決定している。第3次五ヵ年計画(1963~1967年)の期間に改革を行うかどうかは、そのときになって状況を見てから決定する」とより明確に指摘した。中央人民政府はチベットの上層支配グループに誠意の限りを尽くし、最大の譲歩をしたと言ってよい。

しかし、チベットの上層支配グループの中の一部の人は、農奴主階級の既得利益と特権を守るために、根本から改革に反対し、封建農奴制を永遠に維持させることを企んだ。彼らは意識的に『17ヵ条協定』に違反し、それを破壊し、さらに祖国を分裂させるための一連の活動を画策し、武装反乱を起こすに至った。1952年3月、4月に、チベット地方政府の司曹(代理摂政)である魯康娃と洛桑扎西は、非合法組織の「人民会議」がラサで大騒ぎして騒動を起こすのを陰で応援し、『17ヵ条協定』に公然と反対し、人民解放軍が「チベットから撤退する」よう要求した。1955年5月、内地(チベット以外のその他の地域)からチベットに帰るダライ・ラマが四川省を経由した際、随行のチベット地方政府망倫の索康とダライ・ラマの副経師の赤江は、仏教活動を口実に、分かれて北路の甘孜、徳格、南路の郷城、理塘を通り、途中現地の土司や寺院の住職と会見し、武力によって民主改革に対抗することを策動した。チベット「人民会議」のトップである阿楽群ら一行5人はダライ・ラマを迎えることを名目に、西康省の雅安、康定などに行って、赤江と協力し、理塘寺の住職、反動の首領、長期にわたって理塘寺に潜伏していた国民党の特務と堅い血の杯を交わし、武装反乱を組織し、策動した。1957年、洛桑三旦(ダライ・ラマの3番目の兄)は、昌都の江達宗の首領である斉美貢布に「ダライ・ラマの指令に従う」よう示唆し、反乱武装勢力をかき集めて局地的な反乱を起こした。彼はまた1957年5月、チベット地方政府の망倫である柳霞・土登塔巴、先喀・居美多吉の支援の下で、「四水六崗」(「四水」とは金沙江、瀾滄江、怒江、雅江を指し、「六崗」とは擦瓦崗、芒康崗、麻則崗、木雅繞崗、色莫崗、沢貢崗を指す。「四水六崗」は古代チベット語典籍における青康地区の総称である。反乱分子がこの言葉を使う目的はすべての康巴の人びと、安多<アムド>の人びとを扇動し中央政府に反対させることにある)という反乱組織をつくり、ほどなく「衛教軍」と名乗った反乱武装組織を設立し、「チベット独立」と改革反対のスローガンを公然と掲げた。反乱活動はますます激しくなった。武装反乱分子は昌都や丁青、黒河、山南などの地区を荒し、交通を破壊し、現地駐在の中央の機関、部隊を襲撃し、あちこちで財物を略奪し、幹部を殺戮し、人民を殺害し、女性に暴行を働いた。

中央人民政府はこれに対して、チベット地方政府に対し何度も厳しく反乱分子を処罰し、社会の安定を維持するよう指示した。しかし、チベットの上層反動グループは情勢判断を誤り、中央の辛抱強さと譲歩を弱腰と見てとった。彼らは、「9年来、漢人はわれわれの最もすばらしい神聖なる制度を変える勇気がなかった。われわれが攻撃しても、彼らは受け太刀するだけで切り返す力がなかった。われわれが他所から武装した一団をラサへ移動させ漢人に一撃を与えさえすれば、彼らはまちがいなく逃げるだろう。もし逃げなければ、われわれがダライ・ラマを山南へ行かせ、力を集めて反撃し、ラサを奪回する。最後的にだめだったら、インドへ逃げるまでだ」と公言した。

外国の反中国勢力の支援の下で、1959年3月10日、チベットの上層反動グループはラサで念入りに陰謀をめぐらし、全面的な武装反乱を起こした。2月7日、14世ダライ・ラマは自らチベット軍区副司令員の 少東らに、「チベット軍区文工団は内地で学習して帰った後すばらしい出し物をしているそうだが、私は一度見たい。やりくりしてください」と提起した。 少東らはただちに歓迎の意を表し、またダライ・ラマに公演の時間と場所を決めさせ、同時にダライ・ラマの望みをチベット地方政府の索康などの망倫、ダライ・ラマの副官長である탕拉・土登為登などに伝えた。3月8日、ダライ・ラマは3月10日午後3時にチベット軍区の講堂に公演を観に行くことを決めた。しかし、3月9日の晩、ラサの米本(ラサの旧市街地の治安を管理する役人、現在のラサ市城関区の公安局長に相当)が、「ダライ・ラマは明日、軍区の宴席に出席し、芝居を観ることになった。漢人は飛行機を準備し、ダライ・ラマを北京まで誘拐しようとしている。どの世帯も人を出して、ダライ・ラマが駐在する羅布林엥(ノルブリンカ)へ陳情に行かせ、彼が軍区まで芝居を観に行かないようにさせなければならない」と市民をそそのかした。翌日朝、反乱分子は2000人余りを脅迫して羅布林엥に行かせ、「軍区はダライ・ラマを毒殺しようとしている」とデマを飛ばし、「チベット独立」、「漢人を追い出せ」のスローガンを叫ばせた。また、反乱分子はチベット地方政府の망倫を退任し、当時チベット軍区副司令員を務めていた桑頗・才旺仁増をなぐり、けがをさせた。さらに愛国的進歩的人士で自治区準備委員会委員であった堪窮탕巴拉・索朗降措を石で無残にも打ち殺し、その死体をウマのしっぽにつなぎ、市街地の中心までウマに引っ張らせて見せしめにした。それから反乱の頭目は続けざまにいわゆる「人民代表会議」、「チベット独立国人民会議」を開き、『17ヵ条協定』を公然と破棄し、「チベット独立」を宣言し、全面的な武装反乱を起こした。

羅布林엥が反乱分子の手に落ちたため、ダライ・ラマとの連絡はきわめて困難になったが、中央のチベット駐在代理代表である譚冠三はなんとか方法を講じて愛国人士を通じ、前後して3月10日、11日、15日にダライ・ラマに3通の手紙を送った。譚冠三は手紙の中で、ダライ・ラマの立場を理解し、彼の安全を気にかけていることを表明し、またチベット地方政府に反乱分子の荒れ狂った軍事挑発をただちに止めさせるよう要求した。ダライ・ラマも3月11日、12日、16日に前後して譚冠三に3通の返事を出した。返事には、「反動的な悪党たちは私の安全を守ることを口実に、私に危害を加える活動をしている。私はあらゆる方法を使ってそれを平定している」。「反動グループの違法行為は、私にとって悲しい限りである・・・私の安全を守るという名目で起こした、中央と地方の関係を離間させる重大な事件に対して、私は八方手を尽くして処理している」とあった。16日の手紙で、彼は、地方政府の役人などをすでに「教育」し、「厳しくしかった」ことを表明し、数日後には軍区に行くかもしれないと述べた。しかし、3月17日夜、ダライ・ラマは망倫である索康、柳霞、夏蘇などの反乱の頭目といっしょにラサを逃げ出し、反乱武装の「根拠地」である山南に向かった。反乱失敗後、インドに逃げた。

ダライ・ラマがラサを離れた後、反乱分子は約7000人を集めて、3月20日明け方にラサにある党・政府・軍隊の機関に対し全面攻撃を開始した。ラサに駐屯していた人民解放軍部隊は忍ぶに忍べず、譲るに譲れない状況下で、当日の午前10時に命令を受けて反撃を行った。チベットの各民族人民の支援の下で、わずか1000余人しかいない解放軍は、たった2日間でラサ地区に集結した反乱武装勢力を一挙にせん滅し、ラサの反乱を平定した。その後、引き続きチベットの他の地区の反乱活動を迅速に平定した。

まさに毛沢東主席の指摘した通り、「ダライ・ラマの反乱の陰謀は1955年に北京から帰ったころから始まっていた。彼は1957年初めにインドから帰り、1958年までの2年間に準備した」。14世ダライ・ラマおよびその政治集団は1959年に外国に逃亡後、いわゆる「チベット亡命政府」を公然と設立し、「チベット独立」を公然と宣言し、反乱武装力を立て直し、中国の辺境で多年にわたって軍事的襲撃を行い、長期にわたって国際的に反中国活動を繰り広げ、チベットとその他のチベット族居住地区で多くの騒乱事件を策動し、祖国を分裂させる活動はますます激しくなった。

チベットの武装反乱は、最初から外国の反中国勢力の支持を得ていたのである。西側のあるメディアの1971年1月26日付けの報道によると、1957年2月、某国の情報機関が太平洋のある島で「四水六崗」の反乱分子を訓練したという。1956年から1957年まで、同情報機関は前後して170人余りの反乱分子を選抜して、同国の「康巴(カンパ)ゲリラ隊員訓練基地」で訓練を受けさせた。訓練を受けた後、チベット族の数百人は携帯用機関銃を装備し、首にダライ・ラマの写真を入れた金の小箱をかけて、空中からチベットに投下された。同情報機関は計2000人のチベット族のゲリラを訓練した。1958年7月と1959年2月、同情報機関は「四水六崗」の反乱武装のために兵器の空中投下を2回行った。中には、ライフル銃403丁、軽機関銃20丁、手榴弾60箱、インド・ルピー数袋が含まれていた。1958年11月、同情報機関はいわゆる「マクマホン・ライン」以南のインド占領区を通過して、山南の反乱軍に226駄の兵器・装備を輸送した。また、翌年1月、ネパールを通過して40駄の物資を輸送し、協망爾を経て山南の反乱武装に運んだ。同情報機関は前後して康区の反乱軍のために空中投下を30余回も行った。投下された物資は250トンに達し、中には約1万丁のM-1ライフル銃、自動小銃などの銃器および軽便な57ミリ無反動砲や高射機関銃が含まれていた。別の西側メディアの1999年8月16日付けの文章によると、1957年から1960年までに西側の某国はチベットゲリラ隊に対し400トン余りの物資を空中投下した。同国は「毎年、チベット行動に170万ドルにのぼる資金を費やした」と明かしている。

ダライ・ラマの逃亡中に上述の情報機関は飛行機1機を改造して、空中から沿道に物資を投下し、無線で反乱武装や近くの各情報ステーションと連絡し合い、またすべての逃亡過程を記録した。香港のあるメディアの1974年2月11日付報道によると、この行動に参加した人の話では、ダライ・ラマが彼の首府を離れることは、西側の某情報機関の策謀であったという。同国の偵察機はチベットの数百マイルまで入り、ダライ・ラマ集団を空中から援護し、食品や地図、受信機、金銭を空中投下し、また中国の陣地を掃射し、さらにこの行動に関する記録映画をとっている。

チベット上層部の反動支配グループが完全に祖国を裏切る道を歩んだことにかんがみ、1959年3月28日、周恩来総理は国務院命令を発布し、チベット地方政府を解散し、チベット自治区準備委員会が地方政府の職権を行使し、10世パンチェン・オルドニが主任委員の職務を代理することを決定した。これと同時に、中央人民政府は「反乱を平定しながら改革を行う」方針を打ち出し、チベット人民を指導して大規模な民主改革運動を起こし、政教合一の封建農奴制を徹底的に打ち砕き、百万にのぼる農奴と奴隷が切に願っていた主人公となる権利を実現したのである。

―封建農奴制の抑圧と搾取を廃止し、百万にのぼる農奴と奴隷を解放する。1959年、中央政府の命令によってチベットの反乱を平定した後、ただちに数百年にもわたりチベット人民を抑圧していた망厦(旧チベット政府)政権およびその軍隊、法廷、監獄を解散させ、旧チベットの法典およびその野蛮な刑罰を廃止した。また農業区では反乱、無償労役制度、奴隷制度に反対し、小作料と利息を減らすという「三反二減」運動を展開した。牧畜区では反乱、無償労役制度、奴隷制度に反対し、牧場労働者と牧主の双方の利益を考慮する「三反両利」運動を展開し、寺院では反乱、封建的特権制度と封建的搾取に反対し、政治的迫害、身分の等級制度の抑圧、経済搾取を清算する「三反三算」運動を展開し、都市では反乱、封建制度、封建的搾取、封建的特権制度に反対し、小作料と利息を減らすという「四反二減」運動を計画的、段階的に展開した。さらに期間を分け、数回に分けて辺境地区に対し民主改革を推し進め、農奴と奴隷が農奴主に従属する関係を徹底的に打破し、封建的制度、封建的搾取、封建的特権制度を廃止し、また無償労役制度を廃止し、高利貸しの債務を帳消しにした。

チベットの百万にのぼる農奴と奴隷はこれにより解放を勝ち取り、国家とチベットの主人になった。彼らの生命安全と人身の自由はこれ以後中華人民共和国憲法と法律に保障され、二度と農奴主の政治的抑圧や強制労働や非人道的な取り扱いを受けなくなり、重い賦税、高利貸しの搾取も二度と受けることがなくなった。民主改革の中でチベット初の農民協会主任に選ばれた尼瑪次仁(ニマツェリン)は、かつてチベット地方政府の망倫であった索康・旺青格勒渓엥の農奴であった。「尼瑪次仁は私の財産だ、彼をまるめて袋に入れるのは、私の勝手だ。彼をひもで引っ張り腰にくくるのも私の気分次第でやるのだ」と、旺青格勒は豪語していた。民主改革の後、尼瑪次仁は「現在私の人身の自由は法律に保障されている。これからは他人の私人財産ではなくなり、気分がからっとした」と語った。30余年も農奴として暮らした次仁拉姆は、1959年の民主改革の後、山南(ロカ)地域の乃東県結巴郷で最初の「朗生互助組」を組織した。彼女はその後、チベット自治区人民代表大会常務委員会の副主任を担当した。

―土地改革を実行し、封建農奴主の土地所有制を廃止し、農奴と奴隷が土地の主人になった。1959年9月21日、チベット自治区準備委員会は「封建的農奴主の土地所有制を廃止して農民の土地所有制を実行することに関する決議」を採択した。「決議」は、反乱に参加した農奴主の土地とその他の生産手段を一律没収して、農奴と奴隷に分配する。反乱に参加しなかった農奴主の土地とその他の生産手段に対しては、国が買いとって農奴と奴隷に分配すると規定している。統計によると、民主改革において、国は総計4500余万元を支出し、反乱に参加しなかった1300余戸の農奴主とその代理人の90万ムーの土地と82万余頭の家畜を買い上げた。没収し、買いとった農奴主の土地は合計280余万ムーに達し、それを20万世帯、80万の農奴と奴隷に分配し、農奴と奴隷は1人当たり3.5ムー余の土地を分け与えられた。世々代々奴隷として暮らしてきた勤労人民は自分が所有する土地で夜通し喜び、「ダライの太陽は貴族を照らしたが、毛主席の太陽はわれわれ貧乏人の身を照らしている。現在、ダライの太陽は山に沈み、われわれの太陽は昇り始めている」と歓呼した。

初めて土地と他の生産手段の主人になったチベットの百万にのぼる農奴と奴隷は、かつてない生産や生活に対する熱情に燃え、チベットの社会様相と生活条件は急速に変わった。統計によると、土地改革が基本的に達成された1960年、チベット全自治区の食糧総生産高は1959年比で12.6%増え、土地改革前の1958年に比べ、17.5%増えた。1960年の家畜飼育頭数は1959年比で10%増えた。民主改革の中で、チベット最初の購買販売協同組合、最初の農村信用組合、最初の民営小学校、最初の夜間学校、最初の識字クラス、最初の映画放映班、最初の医療衛生機構が創設された。1959年末、ラサ市区は住民委員会28ヵ所を設立し、前後して貧乏な浮浪者と乞食8700余人を収容して就業させ、生活貧困者8500余人を救済し、孤児・年寄り・病人・身障者120余人を収容した。1960年、納金水力発電所が完成し発電を開始し、ラサの一般市民は初めて電灯を使用した。1959年から1960年までの2年間に、チベットでは数十ヵ所の現代化小型工場が建設され、チベット族の労働者2万余人が養成された。90%の県には自動車道路が開通し、自動車道路の総延長は1.25万余キロに達した。

―政教合一の制度を廃止し、政教分離と宗教信仰の自由を実行する。民主改革により、反乱に参加した寺院の土地や家畜などの生産手段をすべて没収し、反乱に加わらなかった寺院の生産手段には買い上げる政策を実行した。一方民主改革において、宗教信仰の自由と国を愛し法律を守る寺院を確実に保護し、人びとが僧侶と尼僧になる自由と僧侶と尼僧が還俗する自由を守り、正常な宗教活動が干渉されないことを保障し、歴史的な意義のある寺院や文物古跡を保護することをはっきり規定した。他方では、「政治統一、信仰の自由、政教分離」という方針を実行し、寺院が経済、政治上にもつすべての封建的特権を廃止し、寺院の封建的占有、封建的搾取、人を奴隷のようにこき使うことおよび寺院内部の封建的管理、等級制度を廃止し、各教派が政治上において一律平等であることを保障した。寺院の公共資金と財産に対し民主的な管理を実行し、生産基金や寺院の僧侶と尼僧の生活費や正常な宗教活動費とした。寺院の僧侶と尼僧は労働力に応じて土地を分け与えられ、寺院管理委員会が統一的に管理し、生産を組織した。寺院収入が正当な支出に足りない時は、政府が補助した。民主改革を通じて、チベットのすべての寺院は管理委員会を選出し、民主的管理を実行している。民主改革の実施により、宗教は封建農奴制によって汚された部分が取り除かれ、宗教本来の様相を回復し、チベット人民の宗教信仰の自由を効果的に保障し、それによりチベットで人民民主の政治制度を実行する基礎が固められた。

―人民民主政権を確立し、人民が主人公になる権利を保障した。封建農奴制度を廃止した後、解放されたチベットの各民族人民は人民民主政権を設立した。1960年末までに、チベットでは1009の郷クラスの政権、283の区クラスの政権が樹立され、78の県(県クラスの区も含まれる)と8の専門区(市)に人民政権が樹立された。チベット族や他の少数民族幹部は1万余人に達した。そのうち、郷クラスの幹部はすべてチベット族で、区クラスの幹部の90%以上がチベット族であり、また300余人のチベット族幹部が県クラス以上の指導職務に就任した。解放され立ち上がった4400余人の農奴と奴隷が末端幹部に成長した。1961年、チベット各地では普通選挙が行われた。かつての農奴と奴隷は歴史上初めて主人公になる権利を獲得したのである。解放された百万にのぼる農奴と奴隷が祝日の盛装を身にまとい、哈達(ハダー、尊敬のしるしとして人に贈る白色の帯状絹布)を手に捧げ、喜んで投票に参加し、きわめて高い政治的熱情と高度な責任精神で民主的権利を行使し、末端各クラスの権力機関と政府を選出した。1965年8月、チベットの郷、県の選挙活動は完成をとげ、1359の郷、鎮で末端選挙が行われ、567の郷、鎮で人民代表会議が開催された。チベットの約92%の地区に解放された農奴と奴隷を主とした郷人民政権が樹立され、54の県が第1回人民代表大会を召集し、正、副職の県長を選出し、県人民委員会を設立した。1965年9月、チベット自治区は第1回人民代表大会を成功裏に開催し、チベット自治区の正式な成立を宣言した。大会に出席した301人の代表中、チベット族と他の少数民族の代表が80%以上を占め、チベットの上層愛国人士と宗教界人士が11%以上を占め、チベット族代表のほとんどは解放された農奴と奴隷であった。人民民主政権の確立は、チベット人民が主人公としての権利を行使する上で強力な政治的保障を提供した。

壮大な民主改革を通じて、数世紀にわたって続いていたチベットの封建農奴制度は数年のうちに消滅し、旧社会に残されたすべての汚物はすみやかに洗い流され、百万にのぼる農奴と奴隷が政治、経済、社会生活の各方面で解放を迎えた。チベット社会の様相は一新され、チベット発展の新しい紀元が切り開かれた。これはチベットの社会進歩と人権発展史上、画期的で重大な変革であり、チベット社会の飛躍的な発展に新たな起点を確立するものであった。

「チャイナネット」資料 2009年3月