中国の民族政策と各民族の共同繁栄と発展

一、統一した多民族国家と一体化した多元的な中華民族


1949年の中華人民共和国成立以来、識別されて中央政府に確認された中国の民族は56ある。すなわち、漢族、蒙古族、回族、チベット族、ウイグル族、ミャオ族、イー族、チワン族、プイ族、朝鮮族、満州族、トン族、ヤオ族、ペー族、トゥチャ族、ハニ族、カザフ族、タイ族、リー族、リス族、ワ族、ショオ族、カオシャン族、ラフ族、スイ族、トンシャン族、ナシ族、チンポー族、キルギス族、トゥー族、ダフール族、ムーラオ族、チャン族、プーラン族、サラール族、マオナン族、コーラオ族、シボ族、アチャン族、プミ族、タジク族、ヌー族、ウズベク族、ロシア族、エヴェンキ族、トーアン族、パウナン族、ユーグ族、キン族、タタール族、トールン族、オロチョン族、ホジェン族、メンバ族、ロッバ族、ジノー族である。そのうち、漢族の人口が圧倒的多数を占め、その他の55民族の人口は比較的少ないため、習慣的に「少数民族」と呼ばれている。

60年来、中国の少数民族人口は持続的に増加し、全国の人口総数に占める割合も上昇傾向にある。現在まで行われた5回の国勢調査によれば、少数民族人口は1953年に3532万人で人口総数の6.06%、1964年に4002万人で5.76%、1982年に6730万人で6.68%、1990年に9120万人で8.04%、2000年に1億643万人で8.41%を占めている。各少数民族の人口には大きな格差がある。例えば、チワン族は1700万人で、ホジェン族はわずか4000余人である。

中国各民族の人口分布は「大散居、小集居、交錯雑居」する特徴を呈している。漢族地区に集居する少数民族もいれば、民族地区に居住する漢族もおり、互いに交錯して居住している。多くの少数民族は1カ所または数カ所の集中居住区があるが、同時に全国各地に分散して居住している。西南と西北は少数民族が最も集中して分布する2つの区域である。西部の12省・自治区・直轄市に全国の少数民族人口の約70%を占める少数民族が住み、辺境の9省・自治区に全国の約60%を占める少数民族が住んでいる。中国の経済社会の発展に伴い、少数民族人口の分布範囲はいちだんと拡大し、現在、全国の分散居住地区の少数民族人口は3000万人を超えている。

中国の少数民族の大部分の集中居住区は土地が広く人口が少なく、資源が豊かである。民族地区の草原面積、森林や水力資源の埋蔵量、天然ガスなどの基本貯蔵量は、いずれも全国の半分を超えるかそれに近い。全国の2万2000キロ以上に及ぶ陸上国境線のうち、1万9000キロは民族地区にある。全国の国家クラス自然保護区面積は85%以上が民族地区にあり、国の重要な生態障壁となっている。

中国の各民族の起源と発展には本土性、多元性、多様性の特徴がある。4、5千年前に、中華の大地で華夏、東夷、南蛮、西戎、北狄の5大民族グループが形成された。各民族は発展しながら互いに受け入れ合い、絶え間ない移動や雑居、通婚、交流を経て、じょじょに融合しては一体化し、またたえず新たな民族が生まれた。その結果として、生き残って今日まで発展してきた民族もあれば、融合や戦争、生態環境の悪化、名称変更などの原因によって歴史の長い流れの中に消え去った民族もある。それらには、一時勢力が強大になった匈奴、月氏、鮮卑、柔然、吐谷渾、突厥、党項、契丹、塞種人などがある。

中国の各民族の形成と発展の状況はそれぞれ違うが、総体的には統一した多民族国家に発展し、まとまって安定した中華民族になる方向をたどってきた。今日の中国の国土と版図は、中華大家庭の一員である各民族が長期にわたる歴史の発展の中でともに開発して形成されたものである。漢族の祖先は最も早く黄河流域と中原地区を、チベット族、チャン族は青海・チベット高原を、イー族、ペー族などは西南地区を、満州族、シボ族、エヴェンキ族、オロチョン族などは東北地区を、匈奴、突厥、蒙古族などは前後して蒙古草原を、リー族は最も早く海南島を開発し、台湾の少数民族の祖先は最も早く台湾島を開発している・・・

早くも先秦時代に、中国の先祖の「天下」の意識と「大一統」(一統を尊ぶ)の理念が形成された。紀元前221年に秦朝は中国歴史上初めて大統一を実現し、全国に郡・県を設けて統治を行い、現在の広西、雲南など少数民族のかなり集中する区域がすべて管轄下に置かれた。漢朝(紀元前206~紀元220年)は統一した局面をいっそう拡大し、今の新疆地区に西域都護府を設置し新疆地区を含む広大な地区を管轄し、さらに17郡を増設し周辺の各民族を統轄し、今日の新疆各民族人民の祖先が住む地域を含む広大な国家をつくった。秦・漢は中国の統一した多民族国家の基本的枠組みを構築したのである。

漢朝以降の歴代の中央政権は統一した多民族国家の枠組みを発展させ、強化した。唐朝(618~907年)は安西と北庭の2つの都護府を設けて現在の新疆を含む西域地区を管轄し、また道、府、州あるいは羈縻府、州を設けて中南と西南の各少数民族を管轄した。蒙古族の打ち立てた元朝(1206~1368年)は、南方の一部の少数民族が集まり住む府、州には土官(少数民族の首領が担当し世襲する地方行政長官)を置き、中央には宣政院を設置してチベットの事務を統轄し、チベットには3方面に宣慰司都元帥府を設置し、以後チベットは中央政府の効果的な行政管理下に置かれた。また澎湖列島と台湾には澎湖巡検司を設けて管理した。元朝の民族には現在の中国のほとんどの民族が含まれている。満州族が建てた清朝(1644~1911年)は、西域に伊犁将軍を設けるとともに新疆省を設置し、チベットには駐在大臣を置き、中央政府がダライ、パンチェンの2人の活仏を冊封するという歴史的制度を確立し、西南の一部の少数民族地区では土司制度の廃止を実施し、官吏を派遣して統一管理を行う「改土帰流」(少数民族の地方行政長官を中央政府により任命する)という政治改革を行い、最終的に現在の中国の版図を確定した。

中国の歴史上では短期的な割拠の局面と局地的な分裂はあったが、国家統一が終始主流と方向である。漢族にしても少数民族にしても、いずれも自らが建てた中央政権を中華の正統とし、多民族国家の統一を最高の政治的目標とした。果てしなく広い国土は各民族がともに開拓したもので、歴史の長い輝かしい中華文化は各民族がともに発展させたものであり、統一した多民族国家は各民族がともに作り出したものである。

統一した多民族国家が長期にわたり存続したことは、各民族間の経済や政治、文化の交流を大いに促進し、各民族の中央政権に対する求心力、中華文化に対するアイデンティティを深化させ、中華民族の団結力、生命力、創造力を強め、中華文明が統一性と多様性を形成するのを促した。歴史上、中国の人口の大部分を占める漢族は主として黄河、長江中下流の中原地区に集中して居住していた。ここは気候が温和で、土地が平らで肥えていて、農耕に適していた。一方、少数民族のほとんどは周辺地区に分布していた。これらの地区は草原や砂漠、森林、高原、高山、丘陵、湖などが多く、牧畜業、狩猟、漁業に適していた。周辺地区の少数民族と中原地区は「茶馬互市」(茶とウマの相互取引)、「絹馬互市」(絹とウマの相互取引)などを通じて、中原の農業、交通、軍事面でのウマに対する需要を満たすと同時に、少数民族の日常生活の需要を満たし、経済の相互補完と共同発展を推進した。少数民族の建てた遼、金、西夏、大理などの政権は、制度制定、国家管理などの上で明らかに漢族の中原政権の統治経験を吸収し、中原文化の多くの要素を受け入れた。塞北、西域の美しいメロディーや楽器はたえず中原に伝わり、中原の音楽の充実・発展に大きな影響をもたらした。各民族間の交流と融合が深まるにつれ、じょじょに交錯して雑居し、共生して互いに補完し合う局面が現れ、相互依存、共同発展の関係が日増しに固まった。

1840年のアヘン戦争後の100余年間に、中国はたびたび西側列強に侵略され侮辱されたが、国家滅亡の危機が中国各民族の運命をより緊密に一つに結びつけた。国が列強に分割され、民族存亡の瀬戸際に立たされた時、各民族人民は奮い立って反抗し、ともに国難に赴いた。19世紀には新疆各民族人民は清朝の軍隊を支援して中央アジアのコーカンド汗国のヤクブ・ベクの侵入勢力を滅ぼし、イギリス、ロシアの侵略者が中国を分裂させる陰謀を打ち砕いた。チベットの軍隊と人民は1888年の隆吐山戦役と1904年の江孜(ギャンツェ)戦役で、イギリス侵略者に大きな打撃を与えた。1931年の「9・18」事件後、日本帝国主義の侵略に抵抗する抗日戦争で、中国各民族人民は一致して敵愾心を燃やし、血みどろになって戦った。そのうち、回民支隊、内蒙古大青山抗日遊撃隊など少数民族を主とする多くの抗日勢力が、抗戦の勝利のために不滅の貢献をした。各民族人民は外部からの侵略に反抗すると同時に、一握りの民族分裂分子が外部勢力の支持の下で「チベット独立」、「東トルキスタン」、偽「満州国」などを画策して起した分裂行為に対して、断固たる闘争を行い、国の統一と領土の保全を守った。

近代の侵略や分裂に反対する偉大な闘争の中で、各民族が歴史的に構築した切り離すことができない関係はさらに強固になり、各民族が苦楽をともにする運命共同体の特徴はいっそう顕著になり、各民族人民は中国歴史の主人公としての責任感をいっそう燃え立たせ強めた。こうして中国各民族の共通の文化や心理的特徴がさらに成熟に向ったのである。今日、中華民族とは、すでに各民族がみな同一だと認める総称であり帰属となっている。