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読者のコメント:「ひと」の自由を縛らない国家 |
発信時間: 2010-03-03 | チャイナネット |
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成田悦子 「権力は地方役人の私有財産になってしまった」というネットユーザーのコメントを読みました。国民の様々な意見をそのまま公開することは、何より大切なことです。国家の可能性は、国が進む方向と逆に視点を置いた意見に常に耳を傾けることで限りないものとなります。 権力者が自国のあらゆる可能性の芽を摘み取る国・日本に住む私にとって、中国は「あこがれの国」というわけではありませんが、国家が「ひと」の「自由と幸福」を何処まで追求可能かを模索する中国政府の姿勢に関心を抱いております。 中国は若い国ではありません。栄光と苦難の歴史を辿った、我慢強く、尊敬すべき国であると思っています。中国の方々を知っている訳でも、中国という国の歴史、政治を理解している訳でもありません。私の視点は、いつも、「私」という一己(いっこ)の「ひと」の視点です。私は日本を背負う事はありません。日本という国家の一員ですが、どのような弾圧にもめげず、国家を批判すべき時にはそうしています。 チャイナネットの記事を毎日読みます。私達日本人が、中国を全く理解していないことに気付きました。民主主義の国・自由の国と思わされ、象徴天皇制継続のために正しい歴史を教えない国・日本は、国民の自覚なしに、まるで母親の胎内の羊水の中にでもいるかのように米国の傘下に収まり、メディアも米国一辺倒で、政府がそれに輪をかけるように世論を操作しますから、確かな情報を得ることが出来ません。 Googleと百度の問題などがその良い例です。チャイナネットを読んでいなければ、私もGoogleと米国の報道を鵜呑みにしていました。両者の主張を読むことが出来て、初めて、私は私の考えを確立することが出来ました。 なぜか、いつも中国びいきになってしまいます。それは中華人民共和国誕生が私の誕生の年「1949年」であるからでしょうか・・。横暴な者、自らを偽る国はいやです。後から忍び寄る、賢明で、無限の可能性を秘めた国・中国は、米国にとって脅威です。私は、日本が単なる米国追随国であることを恥じています。 中国の立法機関である全国人民代表大会常務委員会による「行政監察法修正案草案」の審議の行方を見守りたいと思っています。13年ぶりの改正です。摘発制度という非常に難しい問題に取り組もうとしています。日本では、行政であり、行政の監視役でもあるという自己矛盾を孕(はら)んだ警察・検察が一般の国民に盲目的に信頼されています。それはまるで全国民が視力を放り出したかのような有様です。 「通報」制度が行政監察の役目を果たすことが出来れば、それは素晴らしいことです。しかし、人間というものは醜い側面を多く持っています。国家であれ、何らかの組織であれ、そうした側面の方が一般的に表出し易いのが「ひと」の世です。 この制度は、一方で、行政の腐敗を告発する者の摘発、絞込みに繋がる惧れがあります。中国がそういった良心的個人の「弾圧」ではなく、「保護」に重点を置き、彼らの意見を行政に存分に取り入れて行くことが出来るのなら、中国の未来は、理想的で、輝けるものとなるでしょう。単に経済で世界のTOPに躍り出るだけではなく、世界平和=「ひと」の幸福=「ひと」のいのちの救済に貢献する国家を目指せます。 これだけ世界に多くの国がありながら、戦争による兵士の殺害は許されています。そうした世界の誤った常識を糾(ただ)そうとする国は在りません。兵士のいのちと、市民のいのちに違いはありますか? 日本は、南京の市民を大量虐殺した国です。 南京大虐殺に関する公文書は、日本政府が焼却処分しました。消さなければならなかった公文書は、消さざるを得なかった公文書であり、国としても「ひと」としても恥ずかしいことを書いてあった公文書です。もし日本が、南京大虐殺の公文書を、20年後30年後に国民と世界に公開していれば、日本はこんな哀れな国になることはなかったでしょう。過去の過ちを認めなければ、「ひと」も、国家も、明日を造ることが出来ません。 日本政府は、第二次世界大戦を教えません。現在配布されている教科書は、真実を闇に葬ろうとする、幼稚で、誤った歴史認識の押し付けです。国内で真実が語られることはなく、国民が知ろうにも、資料は全くありません。日本政府は愚かにも、歴史を解き明かそうとする文書の存在も、個人の発言も許しません。それは、南京大虐殺に関する映画の上映禁止であったり、出版妨害という容(かたち)で現れます。 南京市に日本軍の総攻撃が始まった日・12月10日は私の誕生日です。私に日本を代表する資格はありませんが、今も続く当時の権力者の支配、私利私欲的御都合主義に翻弄される日本政府の歴史認識の誤りを告発し続けます。それが中国の皆様の静かな憤りに対する、この国に生きる者としての私の謝罪です。 中国が、過去も今後も、紆余曲折があるにしても、国家の歴史を正しく認識し、過去の国家の過ちを認め、国の歴史の真実を国民と共有する為の努力を惜しまないのなら、国は真の繁栄を手にすることが出来ます。真の繁栄というのは、お金持ちの国になることではありません。 目指すべきは、「ひと」の自由を縛らない、「ひと」の一生を邪魔しない国家の建設です。 政治・立法、行政は過剰であってはなりません。「ひと」の自由を奪います。法改正を繰り返し、法が行政側の保守に傾くと、法も行政も中身の無い虚しいものとなり、国家は空洞化します。司法は、そうした誤った国家を更に誤った方向に向かわせることを促します。そして、外部からのほんの一言、些細な出来事で国は崩壊します。 中国が、もし今間違った道を行こうとしているのなら、未だ間に合います。「ひと」のいのちがいのちたる所以(ゆえん)である「幸福」、を追求することを邪魔しない国造りを標(しるべ)として、全人代のあらゆる議題に取り組んで頂きたいと思っております。 「チャイナネット」 2010年3月3日
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