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ブルース・リー、カンフーで米国の扉を開く
発信時間: 2009-01-06 | チャイナネット

 

李小龍(ブルース・リー)は1940年、米国サンフランシスコの演劇家の家庭に生まれた。父の李海泉は広東劇の著名な俳優。2カ月で父主演の映画「金門の女」に出演し、まさに「生を受けてすぐに映画を撮り始めた」。幼少期を香港で過ごし、演劇のほか毎日、木の杭を相手に武術を練習。少年時代は喧嘩が好きで、「小さな覇王」と呼ばれた。後に、敵が多かったことから米国に引き返した。

米国に戻ると、ワシントン州立大学で哲学を学ぶ。62年、シアトルの中華街に「振藩国術館」を開設し、中国カンフーを伝授。わずか11秒で日本の空手道黒帯三段を打ち負かす、フロリダ州の中華街で4人の刀剣を持った無頼漢を素手で押さえ込む、中国人の少女を救うなど、ブルース・リーの門下生は徐々に増えていき、「有史以来、全米(おそらく全世界)で最高の価値ある教師」となった。

だが、伝授に満足することはなかった。目標はハリウッドだ。「中国カンフーをスクリーンに映し、栄光を勝ち取る」。64年、自ら考案した「截拳道」が認められ、テレビドラマ「青峰侠」の出演を依頼された。脇役とはいえ、彼の技量、風貌は主役を圧倒し、視聴者に深い印象を残した。

だが、当時の米映画界は白人が至上。皮膚の黄色いブルース・リーは、武術は最高、演技も最高であっても、1人の武術師にすぎない。彼は不本意だった。

70年に香港に戻った後、彼は本分を発揮していく。「私が受けた、香港人の気持ちの温かさは驚くほどだった」

70―73年に、ブルース・リーは香港で4本のカンフー映画で主演を務めた。「唐山大兄」と「精武門」「猛虎過江」「竜争虎闘」。もう1本の「死亡遊戯」は20ほど撮っただけで、完成はしなかった。だが、この4本の映画を通じて、彼は中国武術とカンフー映画で地位を築いた。

「私はまず武術家であって、そして俳優である」。映画は世界に中国武術を宣伝し、実証する単なる媒体にすぎない。彼はカンフーのために映画を撮った。カンフー映画が海外で人気を集めるにつれ、カンフーも世界に知られていく。多くの外国語辞典に新しい単語が出現した――「功夫」、Kungfu、そしてカンフーである。

外国人の心にあるカンフーこそが中国武術であり、ブルース・リーはその化身だ。「天下第一だとは決して言わないが、第二だとは決して認められない」。彼は国際社会で極めて大きな成功を収め、旧時のハリウッド映画にみられた脆弱な中国人というイメージを徹底的に覆した。

かなり長い間、米国人はこの中国武術のスターにとりつかれた。この見るからにいささかひ弱な中国人は、これほどまでに武術を得意とし、攻撃は常に迅速で、致命的だ――。一時期、「Chinese GongFu」は米国を席巻し、当時、若者が追随しブームとなった。あるハリウッドの監督はこう話す。「ブルース・リーは米映画史、米国の社会史に誕生した最も傑出した東洋人である。将来にわたる200年、どんな東洋人であれ彼を越えて米国に影響を与えることはできないだろう」

73年7月20日に病気のため死去。遺体はシアトルのレイクビュー墓地に埋葬された。だが、時は流れても、人びとはブルース・リーを忘れることはなく、1つの文化的符号となって心の奥底に残っている。93年、彼の名はハリウッドの著名人大通りに刻まれた。中国人スタートしては初めてだ。99年には華人として唯一、米雑誌「タイムズ」の「20世紀の英雄と偶像」に選ばれた。今日に至るまで、米国の大学には彼を研究する課程が設置されている。

「チャイナネット」2009年1月6日

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