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鄧小平一家30年の起伏 四合院で静かに生活(2) |
発信時間: 2008-12-02 | チャイナネット |
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鄧小平の長女、鄧林は追憶する。当時、鄧小平は鄧家の子どもは控え目でなければならない、名前をおおっぴらにしてはいけない、控え目に行動しなければいけない、そして「法を守り、国の法律を逸脱してはならない。本当にそうなったときには、わたしも手助けすることはできない」と強調したという。鄧小平は晩年、聴力が衰えたが、末娘の鄧榕が「耳」代わりとなって、例えば、第1次南方視察や英国との交渉など、中国と世界に影響をおよぼす数々の重大な歴史的瞬間に参与し、それを直接目にしてきたが、鄧家の人は一貫して時代の証人という「本分」を忘れることなく、政治とは距離を保ってきた。
1989年11月、鄧小平は中国共産党軍事委員会主席の職務を辞任した後、正式に退職し、北京市景山後街の灰色の壁、灰色の瓦の家で晩年を安らかに過ごし、悠々自適の生活を送った。中南海(共産党と政府の所在地)から遠く離れてはいても、鄧小平は国家建設に注視する目を閉じることはなかった。1992年初め、農暦の春節が訪れるのを前に、家族と一緒にいることが好きな鄧小平は一家とともに南方に行くことを決めた。その後の改革開放と経済建設の進展を速めることになる「九二南方視察」を行ったことで、鄧家の人はこの重大な歴史的出来事の全過程の自ら体験することになる。 南方を視察するなかで、鄧小平は「発展こそ確固とした道理である」「改革も生産力を解放する」など、後世によく知られた教典的な言葉を次々に発した。だが、長女の鄧林は、鄧小平は晩年言葉少なくなったものの、「節目の際には言うべきことは必ず言った」と話す。 鄧林は、鄧小平が南方視察中に最も興奮した深センでの出来事に触れた。当時、深センから船で珠海に向かう途中、当時88歳の鄧小平はまる1時間もしゃべり続け、家族が高齢を考えて話すのを止めるよう勧めても、非常に気持ちの高ぶった鄧小平は止めてもまた話し始め、改革開放を是が非でも推し進めなければならないとの切迫した気持ちが感じられたという。 九二南方視察は晩年の鄧小平の時局に対する見解そのものを示していると言えるだろうし、全過程を付き添った子女がこの間の歴史を理解するために非凡な「私的な視点」を提供したのは間違いなく、彼らの言葉も他人に鄧小平の晩年の心の動きを知るうえで参考となる史料となった。2004年、鄧小平生誕百周年の際、鄧家で最も常に外部に対して発言していた鄧林と鄧榕はそれぞれの自著を改編し、共同で『わたしの父・鄧小平』を出版した。 現在、長女の鄧林は中国画の筆を執ることはやめない。長男の鄧朴方は再任されてきた中国身体障害者連合会主席の座を11月の全国大会で下り、政治協商会議副主席の身分で同連合会名誉主席に選ばれた。中国科学技術部の副部長だった次女の鄧楠は現在、中国科学技術協会党委員会書記であり、末娘の鄧榕は中国国際友好連絡会副会長として民間外交に尽力している。 以前、メディアの取材を受けた際、一番年上の鄧林は、鄧小平の子女教育について、「大切にしたのは、能力をもたせること、才知ある人間になるよう教育すること、その程度がどうであれ構わない、自分で生きていければそれでいい」ものだった、と何度も語ったことがある。「もちろん父も、わが家の人間は前途洋々ではないが、それなりに、多少のものはある、と話したことがある。わたしたちもそうしてきた」と鄧林は語る。 「老爺(老父の尊称)」を失くして11年来、この家族は心情をより大切にするようになった。鄧榕は「家族は父が生きていたときのように、今でも四合院(北京の伝統的な住居)に住み、母の傍に仕えている」と語ったことがある。誰もが静かさに気を配っているが、ただ父親の記念活動にあたっては出席するため誰かを民主的に推挙せざるをえない。こうした「任務」の大半を担っているのが、画家だった一番年上の鄧林である。 (文中敬称略) 「チャイナネット」2008年12月2日 |
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