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japanese.china.org.cn |29. 06. 2021

中国の指導者たち:大きくて、温かい人—周恩来

タグ: 指導者

周恩来総理に初めてお会いしたのは、1958年1月、私が両親に連れられて北京に移住して間もなくだった。当時私は中学3年生、北京の第25中学3年に編入してもらった。しかし、中国語は「你好」(ニーハオ)くらいしかできなかったので、毎日学校に通い、教室に座っていても、先生が何を言っているのか、生徒たちが何を話しているのかさえ、ほとんど分からなかった。 

 


写真提供=西園寺一晃

 

そんなある日、両親から「明日、周恩来総理の家に招待され、一緒に昼食をする」と聞かされた。前の日、そのことを筆談で先生に伝えた。担任の先生は朝のホームルームで、クラス全員に話してくれた。途端にみんながワーッと言って、席を立って私の周りに集まり、手を握ったり、ハグをしてくれた。周総理はそれだけみんなから尊敬されていた。周総理は最も身近に感じられる「偉大なお父さん」的存在だったと思う。そんな人に会えるなんて、みんな自分のことのように喜んでくれた。

中南海西花庁、中南海は共産党や政府の高官が住み、執務するところだ。高い塀に囲まれた、広大な庭園の中に、小高い山あり、池あり、遊歩道ありの優雅なところであった。

初対面の周総理は、新聞やニュース映画で見るのと、少しイメージが違った。公式の場所には、いつもパリッとした人民服で現れ、威厳を感じた。しかし目の前の周総理は、普通の中国人と同じ木綿の人民服を着て、布靴を履いた、普通のおじさんだった。その姿、笑顔を見て、私の緊張は解けた。隣には優しい笑顔の鄧穎超夫人がいた。

中国の盛大な宴会を何度か経験した私だったが、周総理家の昼食は至って質素だった、野菜炒め、スープ、漬物、肉は少なかった。でも昼食にも家庭料理的な温かさを感じた。そして私はあることに気づいた。それも私の緊張感を和らげた要素だったかもしれない。

昼食中、周総理は私に何度も話しかけてくれた。残念ながら当時は、まだ中国語が良くできなかったので、通訳さんを通じてのものだったが、その会話は今でもはっきり覚えている。

「君はこれから長く北京に住む。いろいろなものを見、聞くだろう。中国には良いところもあり、遅れたところも多い。良くないものを見たり、悪いところに気づいたら、友達に言いなさい。聞いてくれなければ先生に言いなさい。先生が解決できなければ校長に言いなさい。それでもだめなら私のところに言いに来なさい。私たちは、誉め言葉ばかり言う友人より、欠点を指摘し、時には批判してくれる友人が欲しいのだ」。

「たくさんの良い友達を作りなさい。それが将来君の大切な財産になる。それはまた中国と日本の貴重な財産になる」。

私は父から、周総理は若い頃日本に留学したと聞いていた。でもその頃の日本は、中国を植民地にしようと、虎視眈々と狙っていたとも聞いた。周総理は、日本に良い思い出はないのではないかと、私は思った。私は恐る恐る周総理に「総理は日本が嫌いですか」と聞いた。周総理は、遥か昔の留学時代を懐かしむように、ゆっくりと話してくれた。

「日本は山も川も、海も美しい。多くの人はとても勤勉で優しかった。私は当時とても貧乏で、時には食事代もなかった。そんな時、下宿のおばさんがね、よく家に招いてご飯を食べさせてくれた。あの時の豆腐は美味かったなあ」。

その後何度かお邪魔する機会があった。私は周総理の質素さに驚いた。靴下にはツギが当たっていた。普段来ている人民服は、洗いさらしで、色もずいぶん落ちていた。家で飲むのはお茶ではなく白湯だった。秘書さんに聞いた話だが、周総理は香港やマカオから来た華僑の代表に会う機会が多かったが、時に高級食材や栄養剤を土産にもらうことがあった。でも周総理は、自分の口に入れることはなかったという。病気の幹部や、秘書、コック、運転手などの身内に病人がいると、それらを与えた。貧しい時代であった。貴重なものはすべて他人に与えた。(止)

西園寺一晃 2021年5月21日

人民中国インターネット版 2021629