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japanese.china.org.cn |01. 07. 2021

記憶の断片をつなぐ——中国人と共に闘った日本人が語る共産党

タグ: 共産党

武吉次朗さんをしのぶ

2018年、日本国際貿易促進協会の武吉次朗元常務理事は、取材の申し出を快諾してくれ、90近い高齢にもかかわらず千葉県から一人で電車を乗り継ぎ、東京支局まで出向いてくれた。名前と連絡先だけが書かれた名刺を差し出しながら、ネイティブそのものの中国語で「我叫“无官一身”」(「万事身軽」と申します)と言い、筆者を驚かせた。

日本国際貿易促進協会の故武吉次朗さん(本人提供)


武吉さんも砂原さん同様、抗日戦争後も中国に残り、東北地方の鉱山で働いた。1947年、国民党が延安を占領したという噂が流れてきた時には、解放戦争に加わるために東北に残った 日本人誰もが悲嘆にくれたという。「しかし職場の党幹部は自信たっぷりに『われわれは国民党の米国式装備を奪っている。じきに中国全土が解放されるだろう』と言うのです。そんな言葉は当時の私にとっては夢物語でした。しかし翌年には東北全域が解放され、さらに翌年には中華人民共和国が成立しました。ボロをまとい大した武装もない軍隊が、一体どうやって中国全土を解放したのだろうと不思議に思ったものです」。武吉さんはこのように述懐していた。

 

1958年に中山服を着て帰国した武吉次朗さん(本人提供)


「私が生涯で唯一人に手を上げたのは、同僚に『日本鬼子』と呼ばれた時でした。怒りに任せ、つい手が出てしまったのです」。厳罰を覚悟していたが、上司は武吉さんに「修養が足りん」と言っただけで、厳しく叱りつけられたのはむしろ同僚の方だった。「武吉は決して『日本鬼子』などではない。われわれの友人であり、同志なのだ!」。その同僚は上司にそう言われて、武吉さんに詫びた。

この「事件」は武吉さんに大きな衝撃を与えた。「共産党員といっしょに仕事する中で、私は『人民に奉仕する』という主旨に直に触れることができました。この主旨こそが、共産党が抗日戦争に勝ち、解放戦争でも勝利をおさめ、新中国を成立させることができた根本だと思っています」

新中国成立当初は、国民党政府が残したスタグフレーションと物資欠乏で市民生活は混乱していたと武吉さんは語る。そんな状況でも、消費物資 が少しずつ豊富になり、人々の生活レベルが年々良くなっていくことが感じられたという。当時の中国では長い棒状の石鹸が流行っていたそうだ。「新しい消費物資がどんどん出てきて流行し、生活に活気を与えていました。それを体感する人民が、共産党を支持しないはずがないでしょう」 

 

1967626日、周恩来総理は日本国際貿易促進協会の萩原定司専務理事一行と会見。武吉さんも随行した(本人提供)


帰国後の武吉さんは日本国際貿易促進協会に入り、国交正常化前にも幾度となく代表団に随行する形で 訪中した。

武吉さんは、1967627日の日付が入った周恩来総理の直筆サインが入った『毛沢東語録』を家宝として大事に保管している。「前日の26日夜、われわれ訪中団は周総理との会見を待っていましたが、総理に会えたのはすでに深夜のことでした。総理が私にサインをしてくれた時にはすでに12時を回っていたため、27日になっているのです。71年にも周総理と会見しましたが、中国側の報告書に書かれた私の名前が間違っていました。すると周総理は書面で注意すると同時に、私に詫び言を述べられた。日ごろ多忙を極める総理が、他人への配慮を第一に考え、数回しか会ったことがない日本の若造の名前を覚えているのです。周総理のサインを見るたびにあの時のことを思い出すと、今も涙が出ます」

 

武吉さんが修正した中国語と日本語の原稿 


取材後、インターネットに掲載する中国語の原稿と雑誌用の日本語のチェック原稿を武吉さんに送ったところ、武吉さんは原稿をプリントアウトし、中日双方の原稿に丁寧に赤字で修正を入れてくれた。その的確な修正を見て、筆者は武吉さんの中国語能力に対する敬服の念を新たにし、真面目な姿勢に感服した。雑誌発売後すぐに武吉さんの自宅に送ったが、週末にかかったため郵便が届くまで若干の時間がかかってしまった。到着が遅れたことをわびたところ、武吉さんは「(郵便局は)人民に奉仕する精神が欠けていますね」と笑っていた。  

 

 

中国と日本のアニメファンの「聖地」として有名な、鎌倉と藤沢をつなぐ江ノ電の鎌倉高校前駅(ネットより転載)


武吉さんは昨年4月に永遠にこの世を去った が、中国共産党の主旨を常に胸に抱くその人生は、筆者の心に深く印象を残した。

砂原さんの家は、中国と日本のアニメファンに「聖地」と崇められる 鎌倉高校からも近い。「聖地」をかすがいに、中日両国の若者は親近感を抱くことだろう。そして武吉さん、砂原さんが中国人と共に歩んだ青春の物語を知った私たちも、同じように互いを近しいものに感じ、勇気をもらうに違いない。

彼らの語る共産党と共産党員は、党が奮闘してきた100年 の中ではほんのわずかな痕跡にすぎないかもしれない。しかしそこに凝縮された知恵と力、そして中日間の絆と友情は、まさにわれわれが受け継ぎ発展させるべきものだろう。

追記:この原稿を翻訳中に、砂原恵さん急逝の知らせを受けた。享年88。新中国建設のために「血と心」をささげたその功績をたたえるとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げます。(于文=文)


人民中国インターネット版 2021630



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