中国では茶を加工する歴史は長い。野生の茶の木が発見され、煮てあつものとして飲むことから塊茶やばらばらな茶まで、また緑茶から多種類の茶まで、手作業の加工から機械化による加工まで複雑な変革を経てきた。さまざまな茶の品質の特徴は茶の木の品種や新鮮の葉っぱという原料によるほか、加工条件と製作方法も重要な要素である。次は茶の製作史を簡単に紹介する。 一、あつものとして飲むことから干して保存するまで 茶を使うことはまず新鮮な葉っぱを噛むときから始まり、煮てあつものとして飲むところまで発展する。煮ることは現代の野菜スープと似ている。雲南省のチノ族は今でも「茶のあえもの」を食べる習慣がある。即ち新鮮な葉っぱを揉み潰して碗にいれ、さらに少々の黄果の葉っぱ、ニンニク、トウカラシ、塩などを調味料として加え、泉の水を注ぎ、混ぜ合わせて食べるのである。茶をあつものにして飲むことに関して『晋書』には「呉人は茶をつんで煮ることを銘粥と言う」と記載されており、唐代になってからも銘粥を食べる習慣が未だ続いていた。三国時代に、魏国では摘んだ葉っぱを餅の形にして干すか炙るかする茶葉の簡単な加工法が現われ、これは茶の製作の芽生えである。 二、蒸青造形から竜団鳳餅まで 簡単に加工した餅茶はまだ草の匂いが濃く残っていた。さらに実践を繰返した結果、蒸青製作の技術が開発された。即ち茶の新鮮な葉っぱを蒸して、砕いてつくり、茶餅に穴をあけ、刺し通して草の匂いがなくなるまで炙る。苦みと渋みを減らすため、さらに新鮮な葉っぱを洗い、蒸青法で圧搾し、汁を除き餅の形に造る。こうすると苦みと渋みが大いに少なくなる。唐から宋に至る頃に、貢ぎ茶がはやり、それを造る作業場−貢茶院まで現れた。役人たちを集めて茶の製作技術を研究させることもおこない、茶の生産を促し、製法の改革を進めた。唐代の蒸青による餅づくりの方法はすでに完璧なものとなり、陸羽の『茶経・造る』には「晴れ、採る。蒸す、潰す、破砕、炙る、封じる、茶はすでに乾く」とある。即ち、この時に蒸青茶餅の製作工程は蒸、塊の溶解、破砕、型に入れ、圧搾し、型から押し出し、並べて干し、穴をあけ、炙り、刺し通し、封じると言う順序になる。宋代になると茶の制作技術の発展は速く、新品が絶えず現れた。北宋の頃には、竜鳳団茶という塊状や餅形の茶の製造がはやった。宋代の『宣和北苑貢茶録』には「宋の太平興国の初め、特に竜鳳模を置き、使を遣して北苑で団茶を造りて一般の飲み方と区別し、竜鳳茶はすでにこれより始まる」と記述されている。宋代の趙汝励の『北苑別録』の記載によると、竜鳳団茶の製造工芸には蒸す、搾る、磨く、造る、黄色を通す、炙るという六つのプロセスがあったこととが分かる。茶の芽を摘んでから先ず水の中に浸す。続いてむらのない茶の芽を選って蒸す。でき上がると冷たい水で洗う。その後、ちょっと搾って水をきり、大きな力で茶の汁を取り除く。そうしてから素焼きの鉢に入れて水を混ぜて細かくする。さらに竜鳳の型に入れて餅の形にし、炙って乾かす。竜鳳団茶の製造プロセスにある冷たい水で洗う工程は緑色を保つことができ、茶の質が高められるが、水で浸すと搾る工程は茶の元の味を消し去り、茶の香りが大いに失われ、また、製造全過程は人力と時間がたいへんかかる。以上の事はいずれも蒸青散茶の誕生を促すきっかけとなった。 三、団餅茶から散葉茶に 蒸青団茶の生産過程で苦みと渋みが消し去りにくいこととよい香りが出ないことを改善するため、だんだん蒸してからすることなく、搾らずに直接炙って乾かすようにし、蒸青団茶を蒸青散茶に改造し、茶の香ばしさを保つようにした。それと同時に散茶に対する鑑賞方法と品質面での要求も現れた。このような改革は宋代にすすめられた。『宋史・食貨志』には「茶は二種類あり、曰く片茶、曰く散茶なり」と書かれている。片茶は餅茶のことを指す。元代の王驍ヘ『農書・巻十・百谷譜』の中で散茶工程について次のように書いている。「採ってから甑に入れてすこし蒸し、生熟の加減は必要にもとづく。蒸してからかごやわらの上に薄く敷き、湿っている内に揉み、焙じるプロセスに入り、火をむらなくあてて乾燥させ、こげることがないように」と。宋から元まで餅茶、竜鳳団茶及び散茶が同時に存在していたが、明代になると、明の太祖の朱元璋が一三九一年に竜団を廃し散茶を興じるという詔書を下したことより、蒸青散茶が大いにはやるようになった。
>> 閉じる